マーラー:「大地の歌」の歌詞と音楽

マーラーの「大地の歌」を演奏した機会に、その歌詞と曲の構造について少し掘り下げて調べたことをまとめたものです。試訳にあたって特に検討・考慮した点は、訳注に記しています。

岩波書店『図書』の池澤夏樹氏の連載において「歌を聞きながら詞を目で追うにはこれが最適」と評されました。

曲の概要

曲名
大地の歌
Das Lied von der Erde
作曲時期
1908/09
初演
1911-11-20@ミュンヘン:ワルター指揮
楽章構成
  1. Das Trinklied von Jammer der Erde
  2. Der Einsam Herbst
  3. Von der Jugend
  4. Von der Schönheit
  5. Der Trunkene im Frühling
  6. Der Abschied
編成
Pi:1(+1); Fl:3; Ob:3; Eh:(1); Ecl:1, Cl:2(+1); Bcl:1; Fg:3; Cfg:(1); Hr:4; Tp:3; Tb:3; Tub:1; Timp; Perc; Hp:2; Str; Alt; Ten
楽章PiFlObEhEclClBclFgCfgHrTpTbTubPerc/特殊HpStrAltTen
第1曲133(1)12+13-433-G,C25部-
第2曲-32--213-4----25部-
第3曲222--2-2-41--Tr,B,C-5部-
第4曲133-13-3(1)4331Tm,G,C,Tb,B, Md25部-
第5曲122-12-2141--Tr,B,C15部-
第6曲132+1-312+14-3-Tam,B, Md,Ce25部-
※()は持ち替え、2+は持ち替えで3本になる箇所あり。 打楽器:B=Bass Drum, C=Cymbal, G=Glockenspiel, Tm=Timpani, Tr=Triangle, Tb=Tambourine, Tam=Tamtam。 特殊楽器:Md=Mandolin, Ce=Celesta
ノート

ブルーノ・ワルターが「最もマーラー的な作品」と呼び、作曲者自身も「これまで作った中で最も個人的なもの(das Persönlichste ist)」と手紙に書いた「大地の歌」は、第8交響曲の2年後、マーラー48歳の年から翌年にかけて作曲されました。

この頃にハンス・ベトゲ(Hans Bethge)が編んだ訳詩集『中国の笛』[1]に出会い、そこから7つの詩を選んで曲をつけたものです(第6曲は2つの詩に作曲)。奇数番の曲がテノールの、偶数番の曲がアルト(もしくはバリトン)の独唱で歌われます。こうした連作歌曲としての性質とともに、「Eine Symphonie」とサブタイトルに付されたとおり交響曲的な面も併せ持ち、歌曲と交響曲というマーラーの最も重要な2分野を融合させた傑作です。

マーラーは一連の歌曲と同様、管弦楽による稿と同時にピアノ伴奏の稿も残しました。長い間個人蔵のまま公開されなかったピアノ稿は、1989年にようやく初演、出版されています[2]

各曲の詳細

大地の歌を構成する6曲それぞれについて、歌詞の対訳、訳注、音楽に関する参考説明の順で紹介します。

第1曲: Das Trinklied vom Jammer der Erde

Das Trinklied vom Jammer der Erde酒のみ歌、大地の悲嘆について
Schon winkt der Wein im gold'nen Pokale,はやくも手招きしている、酒が、黄金の酒杯の中で、
doch trinkt noch nicht, erst sing' ich euch ein Lied!だがまだ飲まないでくれ、まず歌おう、私が君たちに一曲!
Das Lied vom Kummerこの歌は、悲しみについてだが
soll auflachend in die Seele euch klingen.ぜひ哄笑となって君たちの心で鳴り響け。
Wenn der Kummer naht,その悲しみが近づくと、
liegen wüst die Gärten der Seele,荒れ果てる、庭が、心の、
welkt hin und stirbt die Freude, der Gesang.枯れて絶えてしまう、喜びが、歌声が。
Dunkel ist das Leben, ist der Tod.暗やみなのだ、生は、そして死は。
Herr dieses Hauses!あるじよ、この家の!
Dein Keller birgt die Fülle des goldenen Weins!君の酒蔵は蓄えでいっぱいだ、黄金の酒!
Hier, diese Laute nenn' ich mein!こちらには、この琴、私のものだ!
Die Laute schlagen und die Gläser leeren,琴をかき鳴らす、そして盃を乾す、
das sind die Dinge, die zusammen passen.これらのことは、たがいに調和する。
Ein voller Becher Weins zur rechten Zeitなみなみと杯に酒、ちょうどよい時に
ist mehr wert, als alle Reiche dieser Erde!それはずっと価値がある、全王国よりも、この大地の!
Dunkel ist das Leben, ist der Tod!暗やみなのだ、生は、そして死は!
Das Firmament blaut ewig und die Erde天空は青い、永遠に、そして大地は
wird lange fest steh'n und aufblüh'n im Lenz.ずっと揺るぎなくあり、そして花が咲く、春には。
Du aber, Mensch, wie lang lebst denn du?君はだが、人間よ、どれだけ生きるのか、さて君よ?
Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen百年と許されていないのだ君が楽しむことは
an all dem morschen Tande dieser Erde!すべて儚いがらくたで、この大地の!
Seht dort hinab!見ろ、そこを、下の方!
Im Mondschein auf den Gräbern月明かりの中、墓の上に
hockt eine wild-gespenstische Gestalt.うずくまる荒々しくも不気味な影。
Ein Aff' ist's! Hört ihr, wie sein Heulen猿だ! 聞こえるか、その叫びが
hinausgellt in den süßen Duft des Lebens!切り裂き響く、甘い香りを、生命の!
Jetzt nehmt den Wein!いまこそ手にとれ、酒を!
Jetzt ist es Zeit, Genossen!いまこそその時だ、仲間よ!
Leert eure gold'nen Becher zu Grund!干してくれ黄金の杯を底まで!
Dunkel ist das Leben, ist der Tod!暗やみなのだ、生は、そして死は!
  • schon : すでに、きっと、~なら。(もちろんschön=美しい=ではない。のだが、どうも語源的にはschönからウムラウトが落ちてできた副詞らしく「素晴らしい」「第一の」→「他に先立って」→「すでに」という具合につながるのかな。細部は要確認)
    winkt : winken=合図する、知らせる。英語のwink(まばたきして合図する)と同語源。
    Pokale : Pokal=m,台つき杯
  • Kummer : m,悲しみ、心配。第1曲のタイトルにも、ハイルマンではKummerが使われており、ベトゲがJammer(=嘆き、悩み、同情)に改めた。Kummerは語源的には英語のcumber(悩ませる、邪魔する)に近いようで、心配事があったり塞ぎこんだりという、どちらかというと内面的な悲しみ。Jammerはもとは泣き声の擬音語とも言われ、不幸だったり苦しいことが、外にあらわれてくる嘆き悲しみという感じ。たぶん。
  • auflachend : auflachen=どっと笑う。急に笑い出す
    klingen : 響く。英語のclinkと同様、カーン、カチン、チリンといった澄んだ響きの擬音語から由来している。この曲で出てくる2回の最高音B♭のうちの一つがこの語に与えられている。大勢の笑い声がこだまして響きあう感じか。
    ベトゲではsoll euch in die Seele / Auflachend klingen!
  • naht : nahen=近づく、迫る
    笑い飛ばすことができればいいが、現実世界の悲しむべきことが消えるわけではない。
  • liegen : 横たわっている、ある
    wüst : 荒れ果てた、乱れた
    ベトゲではWüst liegen die Gemächer meiner Seele.(マーラーはさらに次の行と順序を入れ替えた)
  • welkt : welken=しおれる、衰える
    hin : あちらの方へ、過ぎ去って、なくなって
    stirbt : stirben=死ぬ、息絶える。LebenからTodに移行すること
    ベトゲではSo stirbt die Freude, der Gesang erstirbt,(前の行より先に来る)
  • dunkel : 暗い、やみの、おぼろげな。英語のdarkとほぼ同じで、光(Licht)がない暗さ。光は第6曲の一番最後に、遠くで青く光る。
    原詩では各連の頭に置かれた悲來乎(悲しみ来たるか)。デーメルはdie Stunde der Verzweiflung naht(絶望の時が近づいている)と訳した。Dunkel istの解釈はいろいろあるだろうが、ここの音楽はSehr ruhig(非常にゆったりと、安らかに)であることを踏まえれば、単に暗いとか絶望というよりも、昼/表層に対する夜/内面の深く暗く静かなイメージか。あるいはフロイト的な無意識の闇ともつながるかもしれない。第6曲では、暗やみで(in Dunkel)小川が快い響きに満ちて歌う。リフレインの注も参照。
  • ベトゲではこの呼びかけは節の2行目。さらにich besitze andres:(私には別のものがある)として次に続けている。
  • birgt : bergen=含む、蔵する
    ベトゲでは最初の行となり、Dein Keller birgt des goldnen Weins die Fülle,
  • Laute : f,リュート。一般に琴と訳すのは、李白の詩では「我有三尺琴」だったからで、これが仏訳でluth→独訳でLauteとなった。マーラーの歌詞としては、琴かリュートか迷うところ。ただし漢語の琴は撥弦楽器全般にも使われるし、luteも(ネック付)撥弦楽器全般の意味にもなるという。たとえば日本語訳聖書(特に旧約)には「琴と立琴」といった表現がたくさんあるが、これが英訳ではluteとharpだったりする(ただしルター訳聖書ではLauteはほとんど使われておらず、SeitenとかPsalterなのだが)。マーラーより後の時代においても、例えばフーリックが「琴学」に関して"The Lore of Chinese Lute"という本を著しているそうだ。また第6曲の訳注にも記すように、現在でも琴を弾く人がThe Lutanistと英訳されたりしている。これらをふまえて、ここは琴にしておく。
    nenn' : nennen=呼ぶ、名付ける
  • schlagen : 打つ、かき鳴らす
    leeren : 空にする
  • Dinge : Ding=n,ものごと:Thing。ベトゲおよびピアノ稿ではzwei Dinge
    zusammen : いっしょに、共に
    passen : 合う、適する。zusammenpassen=調和する、似合う(ベトゲでは1単語)
  • Becher : m,杯、グラス
    rechte : rechten=right
  • mehr : より一層:more
    wert : 値打ち
    Reiche : Reich=n,国、帝国、領域。ベトゲではdie Reiche
    Erde : f,地球、大地、土地、この世。ここで初めてErdeが登場する。全体では第1曲で3回、第6曲で2回、Erdeが用いられている。このうち、ここと次節の末尾のErdeは、「大地」ではなく「この世」「現世」あるいは「地上」と訳し分けたい人も少なくないようだ。しかしErdeとは私たちが生きるこの地球であり(そういえばアドルノも《この曲のErdeは宇宙から見た地球だ》というようなことを書いていた[アドルノ, p.198])、そこには花も咲けば帝国もあり、そこで酒も飲めば歌も歌うし苦しみもある。それら全てを受け入れているのがErdeなのだから、どれも「大地」でよい、というよりそれらが同じ一つの言葉に込められ、同時に表出されていることが重要だから、訳語も同じ言葉を用いるほうがよいと思う。そして最も大きな問題は、「この世」「地上」の苦しみでは対比される答えが「あの世」「天上の世界」ということになり、それではマーラーが言おうとしていることとはまるで違うものになってしまうのだ。
  • 楽譜ではこの行末に感嘆符があるが、[Dover]冒頭に掲げられた歌詞では感嘆符がなく、やや微妙。ベトゲではリフレインには感嘆符はつけられていない。
  • Firmament : n,天空、蒼穹
    blaut : blauen=(空が)青くなる、青い。大地の歌の歌詞には、blau、blank、Blume、blühen、Blüteなど"bl"の音で始まる単語がたくさん用いられており、意味論とは別のレベルで、音のイメージのつながりがある(あるいは、愛や憧れの象徴であるBlaue Blumeが微かに響く)ように感じられる。
    ここでのErdeは春になると新しい生命が生まれる揺るがぬ大地。
  • fest : 堅い、頑丈な
    aufblüh'n : aufblühen=花開く
    Lenz : m,春(雅語、日が長くなるところから)。新しい生命が大地に生まれるLenzは、全曲を通してのキーワードでもある。
    und aufblüh'n im Lenzはベトゲではauf den alten Füßen(昔からの足もとに)
  • darfst : dürfen=してもよい:may
    ergötzen : 楽しませる
  • morschen : morsch=砕けやすい、もろい
    Tande : Tand=m,がらくた、おもちゃ、虚飾。原詩では富貴百年能幾何(金や地位があってもせいぜい百年も能くするわけではない)。
    ベトゲではこのあとにNur Ein Besitztum ist dir ganz gewiss: / Das ist das Grab, das grinsende, am Ende. / Dunkel ist das Leben, ist der Tod.(一つの財産だけがおまえの確実なものだ/墓だ、ニヤニヤ笑うもの、最後の時に/暗やみなのだ~)と3行が続き、リフレインも含め他の節と同じ形式になっているが、マーラーはこのシニカルな句を削った。そして代わりに、最後の語となるErdeを5小節にわたってffで歌わせる。第1曲では(そして全曲のテーマとして)生命を育む揺るぎない大地Erdeと人間的な苦悩や喜びの場としてのErdeが拮抗するが、後者の力がまだ支配的。ただしErdeを延ばす音はどんどん下降してゆき、休みなく突入する第4節で下の方に不気味な影が現れる。
  • dort : そこに、向こうに
    hinab : 下へ。hin(向こうへ)+ab(下へ)
  • Gräbern : Grab=f,墓
    ここからの4行は原詩で「孤猿坐啼墳上月」にあたる部分。
  • hockt : hocken=うずくまる
    wild-gespenstische : wild=ワイルド+gespenstisch=幽霊のような。ハイルマンでは孤独な(einsam)と原詩に近いが、ベトゲは不気味なイメージとして捉えている。
    Gestalt : f,姿、形
  • Aff' : Affe=m,猿
    heulen : 遠吠えする、唸り声をあげる。サン=ドニの仏訳では泣く(pleure)だったが、ハイルマンの独訳ではこの吠える(heult)が用いられている。
    猿の啼く声は唐詩ではふつう旅愁や悲哀を象徴する。両岸猿声啼不住(李白)、空山夜猿啼(魏徴)など。しかしベトゲにおいては、墓の上という状況とあいまって、ほとんど死のイメージ。ショスタコーヴィチは、彼の第10交響曲第3楽章のホルン主題と「大地の歌」の不吉な猿の叫び(冒頭ファンファーレ)が似ていると書いた手紙で「それは中国では死、残酷な運命、不幸の象徴」と説明しているそうだ(L.E.Fay, Shostakovich: A Life, p.187)。サン=ドニは仏訳の注で「中国では野生の猿がしばしば墓場になる場所に住みつく。耕せる土地ではなくて、荒れた離れた場所があてられるからだ」と説明している。
  • hinausgellt : hinaus=外へ+gellen=金切り声を上げる
    Duft : m,芳香、かすみ
    Lebensの語はffの最高音で5小節歌われる。第6曲の「生命に酔いしれた世界」にも通じる「甘い香り、生命の」がこの楽章のクライマックスだ。たとえ生が苦悩や不条理に満ちたものであるとしても。しかし不吉な叫びはこの甘美な香りを切り裂き、「生命」の音は、死によって切断されるかのように最後の小節で九度急降下する。(ベトゲおよびピアノ稿ではLebensがAbends=夕べの甘い香り。このクライマックスが「夕べ」では、どうにも音楽とバランスが取れない…)
  • nehmt : nehmen=(手に)取る。英語のtakeに近い
    死が避けられないことをつきつけられた今こそ酒を、ということだろうか。前半の酒とは雰囲気が異なる。けれども大地は大地であるように、酒は酒だ。
  • Genossen : Genosse=m,仲間
    第6曲の最後にも「そのとき」(seiner Stunde)が歌われる。同じときではないだろうけれども、もしかするとどこかでつながるのかもしれない。独唱の回音(ひねり)はこれまで3拍目の16分音符だったが、Zeitは初めて、Vnや木管と同じ1拍目に三連符を置く形になっている。
  • Grund : m,土台、地面、底。ベトゲではbis zum Grund
  • マーラーはこの曲で「この世の虚しさ、辛さ」を歌っているとよく言われるのだが、そう単純な話ではないだろう。世の中に悲しみはあるが笑いに変えよう、金や権力や王国より素晴らしい酒や歌がある。揺るがない大地に比べれば儚いものだが、春になればまた花が咲く。生は死によって引き裂かれる、しかしずっと奥底は暗く静かなもの、それは生でも死でも同じ、ということはどうなんだろう、とさまざまな考えが拮抗するなか、まだ答えはない。

原詩は李白の「悲歌行[3]の前半。

原詩4連のうち最初の2連がエルヴェ=サン=ドニによって仏訳されました。これをもとにしたハイルマンによる独訳では、各連をそれぞれ2つに分けて4節とし、連冒頭で反復される「悲來乎」をPeï laï hoペイ・ライ・ホーというリフレイン(反復句)として節末に置いています。ベトゲはこのリフレインをDunkel ist das Leben, ist der Todと訳しました。

曲はHrのファンファーレで始まり、すぐに高弦がそれを受けた主題を奏します。Hrの動機は四度の上昇下降Aと、二度上昇+四度上昇Bの2つの要素から成ると見ることができるでしょう(Eに戻るところまで含めた音形はB+としておきます)。弦の主題は、Bを逆転させて変形したB'を核とし、最後に三度下降を加えてA-G-E-Cというハ長調付加六度の分散和音(B'')で締めくくられます。

Ten独唱は、素早い長三度上昇(α1)で導入され、その二度上から時間をかけて四度下降してさらに半音下までたどり着きます(α2[4]。続く「だがまだ飲まないでくれ」では末尾の伸ばしでひねり(回音)が加わり(C、オペラでは乾杯の歌の定番)、B'の音程で結ばれています。Cのひねりは、Vnや木管では1拍目が三連符、2、3拍目が4分音符というゆったりした形で用いられます。


高弦の主題のアウフタクトからの3音に注目すると、B'の音の順序を入れ替えた変形パターンが見いだせます(β)。この音形は例えば「この歌は悲しみについてだが」の箇所や、また跳躍を三度に狭めて「喜びが、歌声が」といった反復/対比の箇所などで用いられていきます。

テンポを落としながらヘミオラで半音階上昇して穏やかにとなると、4小節の導入のあとリフレインが下降する分散和音でゆっくり歌われます。第1節ではト短調で、全体が非常に穏やかになのに、独唱にだけ非常に重々しくという指示が与えられており、悲しみと喜び、生と死などが隣り合わせというか、対峙しているようでもあります[5]

ト短調となったファンファーレで導かれる第2節は、提示部の反復のような位置にありますが、調性も旋律も変化し、歌も嘆きや悲哀ではありません。途中から変ト長調に転じ、さらにリフレインは変イ短調となります。今回は管弦楽がfで入ってディミヌエンドしますが独唱に重々しくの指示はなく(全体は非常に穏やかに)、またderの音が半音下げられて和声の行方が一瞬見失われそうになり、そして最後のTodで変イ長調に解決します。

穏やかな長調のまま管弦楽による大地の春の音楽[6](マーラーがしばしば用いる、解決の一部先取り)が始まり、しばらくしてから第3節を歌う独唱が加わります。これは逆に後半で激しくなり、「君はだが、人間よ」と再び生命の問題が前面に。歌詞からリフレイン部分は削られ、音楽はその場所が「百年と許されていないのだ」の歌で置き換えられています。最後に高音のffで長く伸ばされる「大地」は、上昇する管楽器と反対に下降していきます。

イ短調に戻り、凝縮された再現となる第4節では、猿の「不気味な影」が死の不安と強い緊張をもたらしますが、ffの最高音B♭で5小節叫ばれるクライマックスは「生命」ということば。そしてこれが最後の小節で九度急降下(背後では弦楽器が2オクターブ急降下)し、「いまこそ手にとれ、酒を」でこの曲では珍しいニ長調の和音[7]が響いたあと緊張がゆるみます。木管がリフレインの旋律を「干してくれ黄金の杯を底まで」の対旋律として奏でたのち、独唱のリフレイン(穏やかにでもないが重々しくでもない。さらにこのリフレインのみスラーがかけられていない)。これまでと異なって和音は長調(イ長調)で始まり、そして長調と短調が交錯しつつ[8]、Todで減七の和音に突入します。疑問符を残したまま、低音域に密集した鋭いイ短調の和音がバタンと扉を占めます。

第2曲: Der Einsame im Herbst

Der Einsame im Herbst秋に孤独な者
Herbstnebel wallen bläulich überm See,秋の霧が波打つ、青々と湖の上を、
vom Reif bezogen stehen alle Gräser;霜で覆われている、すべての草が;
man meint, ein Künstler habe Staub vom Jadeこう思うでしょうか、芸術家が粉の翡翠を
über die feinen Blüten ausgestreut.美しい草花の上に振り撒いたかのようだと。
Der süße Duft der Blumen ist verflogen;甘い香りは花から消え去っている;
ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.冷たい風が、曲げるその茎を下向きに。
Bald werden die verwelkten, gold'nen Blätterやがてうつろい、萎れた、黄金の一葉は、
der Lotosblüten auf dem Wasser zieh'n.蓮の花の葉は水の上を、流れて行く。
Mein Herz ist müde.私の心は疲れています。
Meine kleine Lampe erlosch mit Knistern,私の小さな灯は消えてしまう、パチパチ音を立てて、
es gemahnt mich an den Schlaf.それは誘うのです、私を眠りへと。
Ich komm' zu dir, traute Ruhestätte!私は向かう、あなたのもとへ、寛ぐやすらぎの場所!
Ja, gib mir Ruh',そう、与えてください、私にやすらぎを、
ich hab' Erquickung not!私は元気を取り戻す必要があるのです!
Ich weine viel in meinen Einsamkeiten.私は涙します、さめざめと、私の孤独のうちに。
Der Herbst in meinem Herzen währt zu lange.秋は、私の心の中で続いています、あまりに長く。
Sonne der Liebe, willst du nie mehr scheinen,愛の太陽よ、あなたはもう輝くことはないのですか、
um meine bittern Tränen mild aufzutrocknen?私の苦い涙を、優しく乾かしてくれることは?
  • Herbstnebel : Herbst=m,秋+Nebel=m,霧
    wallen : 沸き立つ、波立つ、荒れ狂う、巡礼する(雅)、流浪する(古)。原詩の秋漢飛玉霜を4行に拡大しているわけだが、ゴーティエはここでs'étend(広がっていく)、ハイルマンはziehn(流れる)としたのに対し、ベトゲはwallenとかなりダイナミックな感じに訳しており、結果的に「飛」のニュアンスに近くなっているようにも思える。
    bläulich : 青みがかった
    ベトゲおよびピアノ稿ではSeeではなくStrom(川)
  • Reif : m,霜
    bezogen : beziehen=おおう、敷く、関連付ける
  • meint : meinen=思う、言う、考えている
    Staub : m,ほこり、ちり
    Jade : m,ひすい。きちんと訳せば「翡翠の粉」だが、Jadeが行末にあることを表すために「粉を、翡翠の」では読みにくいのであえて「粉の翡翠」。
  • Blüten : Blüte=f,花(おもに実をつける草花)。ベトゲではHalme(茎)
    ausgestreut : streuen=ふりかける、撒き散らす
  • Blumen : f,花
    verflogen : verfliegen=飛び去る
    第1曲での「甘い香り」は生命のものだった。ここでは花が生命の象徴となっているわけだが、第1節の宝石のような美しさは夢だったとでもいうように唐突にその生命が枯れていくさまを描く。原詩では北風掃荷香(訳詞の次行の風が香りを吹き飛ばす)で第1行と対=共時的なのだが、訳詞では微妙な時間の経過がある、というか落差あるいは儚さが際立つ。
  • beugen : 曲げる、かがめる
  • Blätter : Blatt=n,葉、一葉、新聞
  • ベトゲでは次のLampeまでが1行。初版(のリプリントであるドーバー版[Dover])に示された歌詞ページでもべトゲと同じ改行になっている(ベトゲおよび[Dover]ではこの節も4行になっているが、音楽のフレーズと詩の改行の隔たりが大きいため、試訳では音楽に合わせて6行に再編した)。
  • Lampe : f,ランプ
    erlosch : erloschen=消えた
    knistern : パチパチ音を立てる
    ピアノ稿ではDeine kleine Lampe(あなたの小さな灯)としている。ベトゲではMine。またベトゲ、[Dover]ではerloschから次のSchlafまでが1行。
  • gemahnt : gemahnen=思い出させる、促す
    ベトゲではan den Schlaf gemahnend(眠りへ促すように)
  • traute : traut=可愛い、くつろいだ
    Ruhestätte : Ruhe=f,静寂、休息、やすらぎ+Stätte=f,場所。ピアノ稿ではDämmerstätte(ほの明るい場所)としている。ベトゲではRuhestätte
  • Ruh' : Ruhe=f,静寂、休息、やすらぎ。英語のrestにあたる。マーラーの楽想標語としてしばしば使われるruhigはこの形容詞で、ゆったり穏やかに奏でることを示す。レクイエムのRequiem aeternamは独訳するとdie ewig Ruheだ。
    ベトゲ、[Dover]では次の行と合わせて1行(この節も含め、全体で4行4節)。
  • Erquickung : f,元気(回復) < quick=元気な、活気のある(雅)。ベトゲではこの前がgib mir Schlafなので「眠って元気回復」で通じるのだが、マーラーはRuh'に変更したため、ややちぐはぐ。同義語ではGenuss(楽しみ)などあるが、しばしば見かける癒しという訳はどうか…。
    not : 必要な
  • währt : währen=続く、持続する
  • aufzutrocknen : ぬぐう < trocknen=乾かす
    mildはピアノ稿ではsanft。ベトゲにはいずれもない。

銭起の「效古秋夜長」が原詩と考えられています[9]。ベトゲ、ピアノ稿でのタイトルはDie Einsame im Herbstと女性形ですが、管弦楽稿では男性形に変更されました。

音楽は、忍び足のような、疲れた感じでVnが8分音符のオスティナートを奏で、Obが憂いを帯びた下降音形の旋律で答えます(この旋律はB'と同じ音程関係。また結尾はβとみることができる)。ベースはほとんど用いられず、時折VcあるいはVaが五度の三連符を並べて(ラ・グランジュが第6曲で使っている用語を拝借して「振り子バス」)薄く低声部を埋めています。

独唱が歌う旋律は、4分音符で順次下降(または上昇)して、2分音符でたゆたいます(Vnオスティナートの順次進行部分を切り取って音価を倍にしたものであるとともに、最初の小節ではα2と同じ音程関係になっています。結尾はやはりβです)。

節の後半、滑らかにとなって変ロ長調に転じるとHrObの旋律を変形して暖かな調べで歌い、木管に受け継がれます。哀愁と暖かさは交互にあるいは重ねて現れ、第4節の「愛の太陽」で暖かさがおおいなる高揚をもって輝きます。

第3曲: Von der Jugend

Von der Jugend青春について
Mitten in dem kleinen Teiche中ほどあたり、小さな池に
steht ein Pavillon aus grünem立ってる東屋、つくりは緑
und aus weißem Porzellan.それから真っ白陶磁から。
Wie der Rücken eines Tigersあたかも背中か、虎の
wölbt die Brücke sich aus Jade弧になる橋のつくりは翡翠
zu dem Pavillon hinüber.先には東屋、向こう側。
In dem Häuschen sitzen Freunde,小屋には座る、友だちが、
schön gekleidet, trinken, plaudern,きれいに着飾り、飲み、語る、
manche schreiben Verse nieder.多くは綴り、詩をものす。
Ihre seidnen Ärmel gleiten彼らの絹地の袖が滑って
rückwärts, ihre seidnen Mützen背中に、彼らの絹地の冠は
hocken lustig tief im Nacken.座るよ愉快に首筋深く。
Auf des kleinen Teiches stillerその小さな池の静かな
Wasserfläche zeigt sich alles水の面に見える全てが
wunderlich im Spiegelbilde.奇妙な、鏡に映った姿。
Alles auf dem Kopfe stehendすべてが頭上だ逆立ちしてる
in dem Pavillon aus grünem立ってる東屋、つくりは緑
und aus weißem Porzellan;それから真っ白陶磁から;
wie ein Halbmond steht die Brücke,あたかも半月みたいな橋で、
umgekehrt der Bogen. Freunde,逆さだ、その弧は。友だちが、
schön gekleidet, trinken, plaudern.きれいに着飾り、飲み、語る。
  • Teiche : Teich=m,池
  • grünem : grünen=緑である
  • Porzellan : n,磁器。厳密には陶器(Keramik、Pottery)ではないが、原詩とされる宴陶家亭子との関係もあるし、ファンタジーみたいな要素もあるので、両方取り混ぜて陶磁にしておく。
    ausは素材を表すと取るのが普通だが、出発点や起源を表すと考えて、「陶磁器(に描かれた絵)から出てきた」と訳すのも面白いかも知れない。この曲は全体的に、現実の世界というよりもミニチュアの世界という感じがする。
  • Rücken : m,背中
  • wölbt : wölben=丸天井をつける、アーチを渡す
    Brücken : Brücke=f,橋。ピアノ稿ではRückenとしている。ベトゲではBrücken
  • gekleidet : kleiden=着る、包む
    plaudern : 雑談する、話す
  • manche : manch=多数の、かなりの数の
  • seidnen : seiden=絹の
    Ärmel : m,袖
    gleiten : 滑る
  • lustig : 愉快な
  • Wasserfläche : f,水面 < Fläche=f,表面。ベトゲではOberfläche(水面。oberは上の方にという意味なので、Wasserflächeの方がよりはっきり水のイメージか)
    zeigt : zeigen=示す、見せる、現れる(sich)
  • wunderlich : 奇妙な、気まぐれな
    Spiegelbilde : Spiegelbild=n,鏡に映った姿
  • Kopfe : Kopf=m,頭→auf dem Kopf stehen=逆立ちしている
    ベトゲではこの節が最後に置かれている。
  • ベトゲではこの節がAlles auf~の前に置かれる。またベトゲ、ピアノ稿ではstehtはscheint(輝く)。[Mitchell, p.248]ではなぜかマーラーの歌詞としてもscheintが採用されている。
  • umgekehrt : umgekehren=戻る、回れ右する、逆さに

李白の「宴陶家亭子」が原詩と考えられています[10]。ベトゲ、ピアノ稿でのタイトルはDer Pavillon aus Porzellan(陶磁の東屋)。

トライアングルとHrの信号に導かれて、木管が五音音階風に上下するアーチ型のモチーフを奏でます。独唱も同じように上下する旋律。伴奏は軽快なスタカートで、前2楽章と大きく異なって、のびのびと朗らかな雰囲気です。陶器に描かれた絵の中から飛び出してきたミニチュアの世界[11]のようでもあります。

第2節では少し流れるような旋律が歌われます(木管は8分音符の上下運動を続けている)。Rücken eines Tigersの部分がアーチになっていることに加え、最初がちょうどAの裏返し、そして下降形がB'(つまりBの裏返し)とすれば、第1楽章の冒頭が水鏡に映って揺れているように見えなくもありません(この曲では、第5節の「鏡に映った姿」の鏡像イメージがさまざまに展開されています)。

ゆったりとそして遅くなる中間部をはさんで、後半は前半の鏡像イメージになっています。たとえば第7節の「あたかも半月みたいな橋で」は次のような具合です。もちろん水面は不安定だから、完全な対称形にはならないのですが[12]

絵画の中の世界が動き出して、飲んだり歌ったり語ったりして、また元の絵に戻っていった[13]、そんな雰囲気も感じさせる、幻のような透明な和音で曲が終わります。

第4曲: Von der Schönheit

Von der Schönheit美について
Junge Mädchen pflücken Blumen,若い乙女たちが摘んでいる、花を、
pflücken Lotosblumen an dem Uferrande.摘んでいる、蓮の花を、岸辺のあたりで。
Zwischen Büschen und Blättern sitzen sie,茂みと葉と葉の間に座り、
sammeln Blüten in den Schoß und rufen集める、草花を、その膝に、そして呼びあう
sich einander Neckereien zu.互いにふざけて。
Gold'ne Sonne webt um die Gestalten,金色の太陽がそっと包む、その姿を、
spiegelt sie im blanken Wasser wider.映し出す、彼女たちを、きらめく水の上に。
Sonne spiegelt ihre schlanken Glieder,太陽は映し出す、そのほっそりした手足を、
ihre süßen Augen wider,その甘い瞳を、その上に、
und der Zephyr hebt mit Schmeichelkosenそして西風の精が持ち上げる、甘えるように
das Gewebe ihrer Ärmel auf, その布地を、彼女たちの袖の、
führt den Zauber ihrer Wohlgerüche durch die Luft.運んでいく、魔法の香りを、風に乗せて。
O sieh, was tummeln sich für schöne Knabenおや見て、なんと駆け回る美しい少年たち
dort an dem Uferrand auf mut'gen Rossen,岸辺の向こうで駿馬に乗って、
weithin glänzend wie die Sonnenstrahlen;遠くで輝く、陽光のように;
schon zwischen dem Geäst der grünen Weiden見る間に枝の間、緑の柳の
trabt das jungfrische Volk einher!飛ばしてくる、少壮の一群がこちらへ!
Das Roß des einen wiehert fröhlich auf,一人の馬が陽気にいななき、
und scheut, und saust dahin,また怯え、またどっと行き、
über Blumen, Gräser, wanken hin die Hufe,花の上、草の上、行き交う蹄、
sie zerstampfen jäh im Sturm die hingesunk'nen Blüten,踏みつぶす急突進し倒れた花、
hei! wie flattern im Taumel seine Mähnen,ハイ!靡かす夢中でたてがみ、
dampfen heiß die Nüstern!湯気が熱く鼻の穴から!
Gold'ne Sonne webt um die Gestalten,金色の太陽がそっと包む、その姿を、
spiegelt sie im blanken Wasser wider.映し出す、彼女たちを、きらめく水の上に。
Und die schönste von den Jungfrau'n sendetそして中でも最も美しい若い乙女が送る
lange Blicke ihm der Sehnsucht nach.長い眼差しを彼に、憧れを込めて。
Ihre stolze Haltung ist nur Verstellung.彼女の澄ました態度は、お芝居にすぎない。
In dem Funkeln ihrer großen Augen,きらめきの中に、彼女の大きな瞳の、
in dem Dunkel ihres heißen Blicks暗やみの中に、彼女の熱い眼差しの
schwingt klagend noch die Erregung ihres Herzens nach.揺れ動く悲しげになお、ときめきが、彼女の心の。
  • pflücken : 摘み取る。ベトゲではこの箇所のpflücken Blumenはなく、次の行のpflücken Lotosblumenに続く。マーラーはこの楽章では反復を増やすなどかなり大きく手を加えている。ピアノ稿とは基本的に同じ。
  • Uferrande : Ufer=n,海岸、岸辺+Rand=m,縁、周辺
    採蓮曲は蓮の根を採る秋の労働歌でありサン=ドニ以降の訳は誤訳、という説をみかけることもある。しかし市川桃子によれば、蓮は古くから恋愛に対する呪術的な力や美人の形容に用いられており、梁の武帝によって始められた楽府詩「採蓮曲」は、民歌の痕跡をとどめた舞歌から宮体詩に溶け込んでゆき、恋や別離の感情を歌うものとなる。李白のこの詩も「花を摘む美人」の系譜であり、サン=ドニ(およびそれ以降)の訳も「場所や状況設定は変わっても、若く美しい乙女たちが…楽しそうにおしゃべりをしている、その至福の光景を描くという本質的な点は、全く変わっていない」[市川, p.210]。
  • zwischen : 間に
    原詩の「隔荷花」をサン=ドニは"Des touffes de fleurs et de feuilles les séparent"と訳し、ここに「少女たちは舟の上にいる」と注を加えている。市川によれば、唐詩で採蓮といえば「若い娘が小さな船に乗り蓮の花の中で実を取って回る」というイメージが湧き、「蓮は大きく成長すると舟を隠してしまうほど丈高く茂る」[市川, pp.209-210]ので、サン=ドニの訳はかなり忠実といえる。しかし(モネの睡蓮のようなイメージだとこの情景は想像しにくいからか)ベトゲは設定を岸辺に移し、岸に茂る草や灌木の間に座った少女たちが水の上に手を伸ばして蓮の花を摘む、といった光景を描いた。
  • sammeln : 集める、採集する
    rufen : 呼ぶ、呼びかける
  • einander : 互いに
    Neckereien : Neckerei=f,からかい、冷やかし
  • umweben : そっと包む < weben=織る、編む、動く
  • spiegelt : spiegeln=映す
    blanken : blank=キラキラ光る
    wider : ~に対して、反して。ベトゲにはない。ピアノ稿ではwiederのようだが、誤植かも。
  • schlanken : schlank=ほっそりした
    Glieden : Glied=n,部分、手足。schlanken GliederはベトゲではKleider(衣服)。またこの行でのSonne spiegeltの繰り返しもマーラーの挿入。
  • Zephyr : m,西風、軟風。ギリシャ神話の西風の神ゼピュロスから。ベトゲでは単にWind。
    hebt : heben=持ち上げる
    Schmeichelkosen : schmeicheln=嬉しがらせる、甘える、優しくする+kosen=可愛がる。mit Schmeichelkosenはベトゲではkosend。
    ベトゲでは(語句は一部異なるが)次のGewebeまでが1行。[Dover]でも同様だが、以下この節は[Mitchell]の改行に合わせた(ちょうどこの部分の2小節単位フレーズに一致している)。
  • Gewebe : n,織物、網
    ベトゲ(および[Dover])ではIhrer Ärmelから次のZauberまでが1行。
  • führt : führen=導く、運ぶ
    Wohlgerüche : Wohlgeruch=m,芳香 < Geruch=におい
    Luft : f,大気、空気
  • tummeln : 動きまわる(sich)
    Was für schöne Knaben=なんと美しい少年たち
  • mut'gen : mutig=勇敢な、大胆な
    Rossen : Roß=m,馬
  • weithin : 遠くへ。weit=広い、遠い(wide)+hin=向こうへ
    glänzend : glänzen=輝く
    Sonnenstrahlen : Sonnenstrahl=m,日光 < strahlen=光を放つ
    この行全体がマーラーの挿入。
  • Geäst : n,枝
    grünen : 緑である、青々としている
    Weiden : Weide=f,柳。grünen WeidenはベトゲではTrauerweiden(しだれ柳)。また行頭のschonもない。
  • trabt : traben=急いで行く
    jungfrische : 若く快活な
    Volk : n,民衆、一群
    この行はベトゲではシンプルにTraben sie einher
  • wiehert : wiehern=いななく
    fröhlich : 陽気に。この語はベトゲにはない。
  • scheut : scheuen=恐れる
    saust : sausen=ざわめく、駆けていく
  • wanken : よろめく、Huf
    この行全体がマーラーの挿入。
  • zerstampfen : 踏みつぶす
    jäh : 急の、突然、険しい
    in Strum : 突撃して。jäh im Sturmはマーラーの挿入。
    hingesunk'nen : gesunken=沈んだ、下落し
  • flattern : はためく、落ち着かない
    Taumel : m,めまい、陶酔、混乱
    Mähnen : Mähne=f,たてがみ
    この行と次の行はマーラーの挿入。
  • dampfen : 湯気を出す
    Nüstern : Nüster=f,鼻の穴
  • この太陽の回想(この行と次の行)はマーラーの挿入。
  • sendt : senden=送る
    原詩の「見此踟躕空斷腸」の主語は、少女(たち)とする解釈と、少年とする解釈のどちらも成り立つという。後者なら《馬に乗った若者が蓮を摘む少女を見て恋に身を焦がす》となり、語法上はこちらのほうが無理が少ないということだが、サン=ドニ以降の訳は前者の立場。市川も、採蓮曲の誕生と発展の歴史から見て、「男性は遠く駆け去ってしまい、女性は引き止める手段もないままに恋焦がれる」という解釈のほうが漢詩のパターンに合ったものとしている(ただし市川は、さらに作者の気持ちが加わり「死すべき運命を背負った人類のなかの一人が、美の極まりの儚さ脆さを痛いほどに感じて戦き嘆いている作品」と述べている)[市川, pp.183-204]。
  • Sehnsucht : f,憧れ、切望。ベトゲではSorge(不安)
  • stolze : stolz=気位の高い
    Haltung : f,姿勢
    Verstellung : f,偽り、お芝居。ベトゲではLüge(見せかけ)
  • Funkeln : n,きらめき、火花
  • Blicks : Blick=m,眺め、眼差し
    この行全体がマーラーの挿入。
  • schwingt : schwingen=振る、ゆらぐ
    klagend : klagen=嘆く、悲しむ。これはKummerとは少し違って、何かが満たされない、あるいは失ってしまったことに対して恨めしく悲しんだり不平を訴えたりする。苦情を言うとか訴えるという意味にもなる。schwingt klagend nochはベトゲではWehklagt(嘆き悲しんでいる。wehは痛みや辛さ、またその悲しみ)
    Erregung : f,興奮、刺激

李白の「採蓮曲」を原詩としています[14]。ベトゲ、ピアノ稿でのタイトルはAm Ufer(岸辺で)。

VnFlによる、どこか「失われた時」に憧れる[15]ような心地よく甘い響きで曲が始まります。Vnに現れるB+を回転して圧縮した16分音符は、すぐにFlで反復され、曲全体に散りばめられていきます。よく見ると装飾音を含めた上昇音形はB'の反行形。裏で動くHrの四度上下がAの反復であることも言い添えておくべきでしょうか。

「若い乙女たちが…」と歌い始める旋律は、二度下降(あるいは上昇)するアウフタクトに大きな跳躍の2つの音が組み合わされた要素を基本としています。これもB+の発展形と考えられなくもないものの、何とでも言えるレベルなので可能性にとどめておきます。

徐々に活気づいていく中間部で馬に乗った若者が登場する部分は、鳴り物も入って賑やか。曲頭の付点リズムと16分音符のモチーフが様々な形で用いられます。どんどん急速になって猛烈な早口で独唱が駆け込むと、若者が魔法で消されたように突然冒頭が戻り、以前と同じ光景が繰り広げられますが、心のなかは揺れ動いています。

第5曲: Der Trunkene im Frühling

Der Trunkene im Frühling春に酔える者
Wenn nur ein Traum das Leben ist,もしただの夢だってんなら、人生が、
warum denn Müh' und Plag'?なんでわざわざ、努力や苦労だ?
Ich trinke, bis ich nicht mehr kann,おれは飲むぞ、これ以上無理ってとこまで、
den ganzen, lieben Tag!まるまる、愛おしい一日ずーっとな!
Und wenn ich nicht mehr trinken kann,それでもしおれがこれ以上飲めねぇってなったら、
weil Kehl' und Seele voll,だって喉も心もいーっぱいだぜ、
so tauml' ich bis zu meiner Türじゃぁ千鳥足で、おれはうちの戸口へ
und schlafe wundervoll!で眠る、素晴らしいー!
Was hör' ich beim Erwachen? Horch!何か聞こえる、おれのお目覚めに? 聞いてみな!
Ein Vogel singt im Baum.いっぴき鳥さん歌ってる、木の上で。
Ich frag' ihn, ob schon Frühling sei,おれはお尋ね鳥さんに、もう春なんでしょうか、
Mir ist als wie im Traum.おれにとっちゃ、まるで夢ん中。
Der Vogel zwitschert: Ja!鳥さんさえずってる:そうよ!
Der Lenz ist da, sei kommen über Nacht!春はそこよ、やってきたのよ、一夜にして!
Aus tiefstem Schauen lauscht' ich auf,うぅんと目を凝らし聞き耳立てたぞおれは、
der Vogel singt und lacht!鳥さん歌ってる、で笑ってら!
Ich fülle mir den Becher neuおれは満たすぞ自分で、杯を一から
und leer' ihn bis zum Grundで飲み干す、そいつの底までな
und singe, bis der Mond erglänztで歌う、お月さんが輝くまで
am schwarzen Firmament!まっくろなお空でな!
Und wenn ich nicht mehr singen kann,それでもしおれがこれ以上歌えねぇってなったら、
so schlaf' ich wieder ein,じゃぁ眠ろう、おれは、もういっかい、
Was geht mich denn der Frühling an!?何か関係あんのかおれといったい春なんて!?
Laßt mich betrunken sein!ほっとけおれを酔わしといてくれ!
  • Lebenはピアノ稿、ベトゲではDasein(現存在、この世の存在)
  • warum : なぜ、どんな理由で
    denn : なぜなら、やっぱり。ベトゲではdann(それから、その場合は)
    Müh' : Mühe=f,努力、苦心
    Plag' : Plage=f,苦労
  • den ganzen Tag : 一日中
  • weil : だから、なので、間
    Kehl' : Kehle=f,喉。Kehl' und SeeleはベトゲではLeib und Kehle(体と喉)
  • taumel' : taumeln=よろめいていく
    Tür : f,戸口
    bis zuはベトゲではvor(~へ)
  • wundervoll : wonderful
  • Erwachen : n,目覚め
    horchen : 聞き耳を立てる
  • Frühling : m,春 < früh=早い
  • zwitschert : zwitschern=さえずる
  • ist daはマーラーの挿入。ラ・グランジュによれば初期のオペラ「リューベツァール」の台本に"Der Lenz ist da, der Lenz is kommen!"というフレーズがあるという[La Grange, p.1356]。ここでの春は、第1曲、終曲で歌われる《永遠の大地の春》であると同時に、第3、4曲と同様マーラーの若いころの思い出にもつながっていく。
  • schauen : 見る。tiefstem Schauenはベトゲではseufze tief(深くため息をつく)。
    lauscht' : lauschen=そっと聞く、耳を澄ます。ベトゲではergriffen(感動した)。
    この行全体はベトゲではIch seufze tief ergriffen auf(私は感じ入って深くため息をつく)。原詩の「感之欲歎息」に近いが、マーラーは《夢見心地で信じられないので、霞む目をこすり凝視して聞き耳立てる》という感じではないか。
  • erglänzt : erglänzen=きらめく、輝く
  • Firmament : n,天空、蒼穹。ピアノ稿、ベトゲではHimmelsrund(天球)
  • この行は「大地の歌」では2回繰り返されるが、ピアノ稿では1回目はsingenがtrinkenになっている。
  • angehen : 関係がある、とりかかる
    mich dennはベトゲではdenn michと語順が逆。ピアノ稿ではdenn derがWelt und(世界も春も何の関係があるものか)
  • (最後のseinが高く延ばされているのは、もし1行目のLebenがDaseinのままだったら対応して面白いかなと思ったりもするが、あまり関係ないか)

李白の「春日醉起言志」を原詩としています。ベトゲ、ピアノ稿でのタイトルはDer Trinker im Frühling(春の酒飲み)。

冒頭のHrが、リズムからも音程関係からも、第1楽章のファンファーレととても近い関係にあることは明らかでしょう(いずれも酒の歌です)。イ長調のつもりでいたらいきなり変ロ長調で歌い始める酔っぱらいの歌は、上昇してファからシまで下降する形が第1楽章の歌い出しと同じです(ただしこちらは上昇の幅が大きく、圧縮され、下降線がうねっていて、酔っぱらい度が高い)。

一方で、冒頭の木管の装飾音やトリルは第4楽章の雰囲気を引き継いでいます。またHrと木管で始まる響きは、第3楽章との共通性も感じさせます[16]。続いてFl, Obから始まるB'の圧縮形は、音価や跳躍間隔を変えながら、この楽章の主題を形成していきます。

詩は酒飲みの第1、2節、寝ぼけ眼の第3、4節、再び酒飲みの第5、6節という構造。音楽も概ねこれに対応しますが、第3節でテンポを落として夢うつつの歌を歌った後、第4節で鳥の声とともにテンポが戻り、早めの再現の素振りを見せます。しかし春を告げる調性は遥か彼方の変ニ長調、「うぅんと目を凝らし」ではまた遅くなって夢との境が曖昧になります(初演を聴いたウェーベルンは、ここでコントラD♭からFlの高いC♭の間にA♭、E♭、G♭、Fと重なる部分を「もはやこの世のものではない」と述べています[17])。

第5節でようやく目覚めたテンポとなりますが、第1節の再現ではなく、その後半が展開された形です。第6節になってこんどこそ冒頭が帰ってきます。第1、2節を提示部とその反復、第3~5節が擬似再現を含む展開部、そして第6節が再現部という構造と考えても良いでしょう。

第6曲: Der Abschied

Der Abschied別れ
Die Sonne scheidet hinter dem Gebirge.太陽は別れていく、山々のかげに。
In alle Täler steigt der Abend nieder全ての谷間にひろがる、夕べが下へ
mit seinen Schatten, die voll Kühlung sind.影とともに、冷気に満ちて。
O sieh! wie eine Silberbarke schwebtおお見よ! 銀の小舟のように浮かぶ
der Mond am blauen Himmelssee herauf.月が青い天の海をのぼって。
Ich spüre eines feinen Windes Weh'n私は感じる、かすかな風が吹くのを
hinter den dunklen Fichten!暗い松のかげで!
Der Bach singt voller Wohllaut durch das Dunkel.小川は歌う、快い響きに満ち暗やみを通り。
Die Blumen blassen im Dämmerschein.花は青白く見える、寂光の中で。
Die Erde atmet voll von Ruh' und Schlaf.大地は息づく、やすらぎと眠りに満ちて。
Alle Sehnsucht will nun träumen,すべての憧れが、今や夢を見ようとする、
die müden Menschen geh'n heimwärts,疲れた人々は、家路につく、
um im Schlaf vergess'nes Glück眠りの中で、忘れてしまった幸せを
und Jugend neu zu lernen!そして若さを新たに学ぶために!
Die Vögel hocken still in ihren Zweigen.鳥はうずくまる、静かに自分たちの枝で。
Die Welt schläft ein!世界は眠りにつく!
Es wehet kühl im Schatten meiner Fichten.風が吹く、冷たく私の松の陰で。
Ich stehe hier und harre meines Freundes.私はここに佇み、そして待ちわびる、私の友を。
Ich harre sein zum letzten Lebewohl.私は待わびる、彼を、最後の惜別の辞のために。
Ich sehne mich, o Freund, an deiner Seite私は切に望む、おお友よ、君の傍らで
die Schönheit dieses Abends zu genießen.美しさを、この夕べの、楽しむことを。
Wo bleibst du? Du läßt mich lang allein!どこにいる君は? 君は私を長く独りにしている!
Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute私は歩く、あちらこちらと、私の琴を持って
auf Wegen, die vom weichen Grase schwellen.道を、そこからは柔らかな草が膨らんでいる。
O Schönheit! o ewigen Liebens, Lebens trunk'ne welt!おお美しさ! おお永遠の愛、生命に酔いしれた世界!
Er stieg vom Pferd und reichte ihm den Trunk彼は馬から降りそして差し出した、かれに酒を
des Abschieds dar. Er fragte ihn, wohin er führe別れの。彼は尋ねた、どこへかれは行くのかを
und auch warum, es müßte sein.そしてまたなぜ、そうあらねばならないのかを。
Er sprach, seine Stimme war umflort:かれは語った、その声はくぐもっていた:
Du, mein Freund,君よ、私の友よ、
mir war auf dieser Welt das Glück nicht hold!私にこの世界で、幸せは微笑まなかった!
Wohin ich geh'? Ich geh', ich wand're in die Berge.どこに私は行く? 私は行く、私はさまよう山の中を。
Ich suche Ruhe für mein einsam Herz!私はさがす、やすらぎを、私の孤独な心のために!
Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte!私は歩く、ふるさとへ、私の場所へ!
Ich werde niemals in die Ferne schweifen.私は二度とすまい、遠くへの逍遥は。
Still ist mein Herz und harret seiner Stunde!静かだ私の心は、そして待つ、そのときを!
Die liebe Erde allüberall愛しい大地の、至るところ
blüht auf im Lenz und grünt aufs neu!花が咲き春になりそして緑になる新しく!
allüberall und ewig blauen licht die Fernen,至るところ、そして永遠に、青く光る遠い彼方、
ewig, ewig...永遠に、永遠に…
  • scheidet : scheiden=分ける、引き離す、離別させる→Abschied。要するに日が沈むわけだが、表題との関係、また次の「夕べが下へひろがる」との関係も考えて、「別れていく」としておく。
    hinter : 後ろに、奥へ、陰で
    Gebirge : n,山脈、山地
  • Täler : Tal=n,谷間
    steigt : steigen=昇る、増す、乗る、降りる(Steige=f,段、坂道)→niedersteigen=おりる
    「夕べが下へひろがる」もまたやや苦しい訳だが、後で出てくるdie Schönheit dieses Abendsとの対応を優先して「夕べ」。その暗さは次の行で表現される。
  • Schatten : m,影
    Kühlung : f,冷気
  • Silberbarke : 銀の小舟 < Barke=f,小舟
    schwebt : schweben=浮かぶ
    ベトゲでは前半(In Erwartung des Freundes)は3行6節、後半(Der Abschied des Freundes)は5行+6行の2節になっているが、マーラーは(1~5楽章までとは違って)この曲を有節形式では作曲しておらず、[Dover]では全体がひとまとまり38行の歌詞として掲載されている。[Mitchell]はこれを6つの節に分けているが、試訳では分かりやすさのために、ベトゲに近い形でより細かく節を分けた。
  • herauf : こちらの上へ
    am blauen Himmelssee heraufはマーラーの挿入で、ベトゲではここに2行先のherauf~Fichtenが来る(月が暗い松の木陰にのぼる)。
  • spüre : spüren=感じる、気付く
    feinen : fein=細い、洗練された:fine
    Weh'n : wehen=風が吹く
    Ichが主語になっているが、孟浩然からハイルマンまではずっと風や小川が主語。ベトゲのこの節ではO siehやここのIch spüreのように「私」が前面に出ており、情景描写に心象風景がかなり強く重なってくる。
  • Fichten : Fichte=f,松、フィヒテ
    この行はベトゲでは2行前の後半。
  • Wohllaut : m,美しい音調 < Laut
  • blassen : 青白くなる < blass=青白い、淡い。色褪せるでもよいが、ここは第2曲のように花が枯れてしまうのではなく、大地が眠り小川のせせらぎが歌のように聞こえる夜の闇に、少し薄明かりが差して花の姿が仄かに浮かび上がってくるという幻想的な感じ。
    たとえばGoogleで"Blumen blassen"を画像検索して出てくる(2013年3月時点)次の画像は、語義通りに青白いわけではないが、影絵のようなイメージは通じるところがあるように思う。
    メタリックな無彩色の花のイメージで、vielen blassen Blumen(たくさんの青白い花)と説明されている。
    Dämmerschein : m,薄明かり、微光。dunkel(生と死)とlicht(永遠の大地)の間の、夢の世界に位置する花(生命)でもあるだろう。
    この行全体がマーラーの挿入。薄明かりで青白く光る夢の世界の生命は、最後に「青く光る遠い彼方」に至る。
  • atmet : atmen=呼吸する
    Die Erde atmet vollはマーラーの挿入。
  • この行全体がマーラーの挿入。
  • müdenはベトゲではarbeitsamen(仕事で疲れた)。この節ではまた私が背面に退くが、描く対象に人が加わる。原詩でも「樵人歸欲盡」(木こり達は山からみんな帰ってしまう)で、視点が自然から生物(人/鳥)に移っている。なおdie müden Menschenには第2曲のMein Herz ist müdeと同じ旋律が与えられている。
  • vergess'nes : vergessen=忘れる。vergess'nes Glückはマーラーの挿入。
    um im Schlafはベトゲではvoller Sehnsucht nach dem Schlaf(眠りへの憧れに満ちて)。
  • この行全体がマーラーの挿入。die müden Menschenからの3行は、マーラーが1884年に書いた詩"Und müde Menschchen sehliessen ihre Lider / Im Schlaf auf's Neu, vergess'nes Glück zu lernen."の引用と言われる。この詩は「さすらう若人の歌」の成立に大きく関係した歌手ヨハンナ・リヒターに捧げらたもので、若い時代の思い出が重ねられている[La Grange, pp.1363-1364]。
  • Zweigen : Zweig=m,枝。still in ihren Zweigenはベトゲではmüde in den Zweigen(疲れて枝にうずくまる)。
  • enschlafen : 眠り込む、だんだん廃れていく
  • この行全体がマーラーの挿入。ここから一人称「私」の世界に入る。
  • harre : harren=待ちわびる、待ち焦がれる
    meinesはベトゲではDes。マーラーは一人称を強調している。
  • Lebewohl : n,別れの挨拶。Leben Sie Wohlということだから「達者でな」という感じで、当分会えない、もしかすると再会できないかもしれない別れの時に交わす。ベートーベンのピアノソナタ第26番ハ短調(告別)がDas Lebewohl(G-F-Esの注も参照)。
    この行はベトゲでは(前の行の最後を持ってきて)Des Freundes, der zu kommen mir versprach(友を、来ると私に約束した)で、別れの示唆はマーラーによる大きな変更点のひとつ。ピアノ稿ではer kommt zu mir der es mir versprachでほぼベトゲと同じ。オーケストラの草稿段階ではピアノ稿と同じながら、その下に"Abschied"と書き込まれており、マーラーがこのテキストに込めたかった意味がうかがえるという[Hefling1992, p.337]。
  • sehne : sehnen=憧れる、慕う、切に望む (sich)
    Seite : f,側:side
    音楽がはっきり切り替わって「私」の歌になる。
  • genießen : 楽しむ、取る、食べる
  • bleibst : bleiben=留まる、居残る、余る
    allein : ひとり:alone
    最初の文はベトゲではWo bleibst du nur?と、nurが加わっている。
  • wandle : wandeln=歩く
    meiner Lauteはベトゲではder Laute。琴をもって歩きまわるのは無理とおもいきや、野外で古琴を膝にのせて奏でる図は結構たくさん描かれており、持ち歩いても不思議ではなかったことが分かる。次の絵は台湾國立故宮博物院にある唐寅作「琴士図」の一部で、英題はThe Lutanistとされている。
    琴士図には、松林の中、水辺に腰を下ろして琴をつまびく人物が描かれている。
  • この行はピアノ稿、ベトゲではO kämst du, kämst du, ungetreuer Freund!(おお、来てくれるなら、君が、不実な友よ)。管弦楽稿で変更されたテキストは、マーラーが切にのぞむこの世界の美、愛を狂おしいまでに歌うと同時に、別れを告げるのは友だけでなく、愛する人生でもあることを暗示する。ピアノ稿がべトゲのままであることからも分かるように、この変更は作曲の最終段階で行なわれたもの。ミッチェルは前半の最後に音楽的な強度が高まったこの箇所で、また「現れない友」に戻ってしまうことはできなくて、異なるテキストを「音楽が求めた」と述べている[Mitchell, pp.422-425]。
  • stieg : steigen=降りる。steigen von~=~から降りる
    Pferd : n,馬
    reichte : reichen=差し出す、与える→darreichen
    Trunk : m,飲酒、一飲み、飲料
    長い間奏の後、ここから王維の詩による後半となる。Er stiegはベトゲではIch stieg。このままだと、前半の「私」が馬でやってきて、待っていた別の「彼」がこのあと(Er sprachから)の語り手になってしまうので、マーラーは主語をErに変更した。しかし目的語ihmは「私」に変えられずそのままで、「彼が彼に」と、この部分では別の語り手が二人を描くような形になっている。試訳では区別のために、やってきた友を「彼」、待っていた友(=後半の主人公)を「かれ」としておく。
  • Abschieds : m,別れ、暇乞い、辞任 < scheiden=分ける、引き離す
    führe : führen=導く/行く、至る。er führeはマーラーの挿入([Dover]によれば次の行の冒頭に挿入しているが、試訳ではフレーズに合わせてwhoinに続けた)。
    Er fragteはベトゲではIch。したがってErは「彼」=やってきた友、ihnおよびerは「かれ」=主人公。
  • 曲ではwarumを反復する。warum es müßte seinはベトゲではwarum er reisen wolle(なぜ彼は旅に出るのか)。またベトゲは続くErをこの行の末尾に置いている(次行がSprachから始まる)。[Dover]では(この試訳と同じく)Erから新しい行。
  • Stimme : f,声
    umflort : 涙に曇る、よく聞こえない
    seine Stimme war umflortはベトゲではmit umflorter Stimme(曇った声で)。ここのErはベトゲでも最初からEr、つまり「彼」=やってきた友ではなく「かれ」=主人公に切り替わる。しかし、歌のテキストからはこの入れ替えは分からない。マーラーは主人公と友の両方を同じ代名詞で呼び、さらに直接話法を長く引っ張ることで、二人の区別をあえて曖昧にしているように思える。友は主人公の分身、あるいは影であるとでも言うかのように(かれ、あるいは主人公の注も参照。ミッチェルは270ページにわたる「大地の歌」論の最後でこの問題を、音楽によってことばの解釈が定まるという視点で、掘り下げて検討している。結論は、せっかく著者が一番最後までとっておいているので、書籍本文を参照されたし[Mitchell, pp.425-432])。
  • そしてここから直接話法の形で「かれ」=主人公が一人称で語りだして、ようやく前半と主語が一致する。が、詩の上ではここも第三者の語り手による引用としての一人称で、その重層構造は曲の最後まで続く。ベトゲでは語順が少し違うが意味は同じ。なお、ベトゲ、[Dover]ともにこの行は前の行の後半(Duで改行しない)。
  • hold : やさしい、好意がある。Das Glück war mir hold=幸運が私に微笑みかけた。
  • 詩の構図としては語り手の直接話法引用という形で入れ子の世界で話が進むわけだが、Ichが何度も繰り返される歌は、前半以上に「私」の声となる。
  • Ich geh'の反復はマーラーの挿入。
  • Heimat : f,故郷
    Stätte : f,場所
    この行全体がマーラーの挿入。Heimatという語を加えたことで、前半のheimwärtsとの対応関係が生まれている。
  • Ferne : f,遠方
    schweifen : さまよう、ふらつく、あてもなく
    niemalsはベトゲではnie mehr
  • Stunde : f,時間、時、授業
    この行はベトゲではMüd ist mein Fuß, und müd ist meine Seele.(疲れている、私の足は、そして疲れている、私の心も。)
  • allüberall : 至るところで
    前半で「友」を切望した調べで、生命を育む大地の永遠を歌う。ここではもう、語り手は消えている、というよりひとつの個体ではなく、大地のあらゆるところで春になると回帰する生命の連続体になるとでもいうか。この行はベトゲではDie Erde ist die gleiche überall(大地は同じである、どこでも)で、もっと淡々としている。なお[Dover]では次のgrüntまでが1行。
  • blüht : blühen=花が咲く
    キーワードLenzの導入をはじめ、この行全体がマーラーによる創作。Die lieber Erdeからのマーラーによる変更には、1880年の詩Vergessene Liebeの"der Lenz gezogen / und Blumen blühn ja überall"も響いているかも知れない[La Grange, pp.1364-1365]。またデリック・クックは、この箇所は第1曲の第3節を回想すると同時に、1879年にヨゼフ・シュタイナーに宛てて書いた大地への愛情(「おお大地よ、わたしの愛しい大地、いつ、ああいつになったらあなたは、見捨てられた者に慰めを与えてくれるのか…」)もこだましているとし、19歳当時の死生観と30年を経てのそれに通低するもの、また変化したものを踏まえて「大地の歌」およびそれ以降の作品を論じている[Cooke, p.103ff]。なお[Dover]ではAufs neuの前で改行し、次の行と合わせて1行。
  • licht : 明るい、光っている。第1曲では生と死がdunkelと歌われた。そして全曲の最後で、永遠の青い光に至る。
    Fernen : Ferne=f,遠方
    ベトゲはUnd ewig, ewig sind die weißen Wolken(そして永遠である、白雲は)で詩を締めくくる。王維の原詩では結句「白雲無盡時」で、この「白雲」は中国古典詩では「隠者の住まう俗世を離れた別世界を象徴する存在」だそうだ[屋敷信晴,「白雲」と「孤雲」]。マーラーでは白雲も隠者も消え、遠くの青い光となる。ミッチェルは、スケッチの様子からしてマーラーはこの最後の部分の歌詞を、作曲しながら作っていったと推測している[Mitchell, pp.420-422]。
  • 魂の救済や復活などではなく、大地には春が訪れて新しい生命が生まれる、その繰り返しによって、死は生につながっていく。永遠に。ここにニーチェのewige Wiederkunft(永劫回帰)を読み込んだり、大地からツァラトゥストラのDer Übermensch ist der Sinn der Erde(超人は大地の意味である)を連想することもできるだろうが、これはまたゆっくり考えることにしたい。

孟浩然の「宿業師山房待丁大不至」と王維の「送別」を原詩とします。ベトゲでのタイトルはそれぞれIn Erwartung des Freundes(友を待って)、Der Abschied des Freundes(友の別れ)。この曲ではマーラーはベトゲの詩に大きく手を加え、より音楽にふさわしいテキストにしています

重く地の底で響くような低音楽器のコントラCと銅鑼によって序奏が始まります。Obによる回音(Cの変形)と、Hrで準備されClが受け継ぐつっかえながら下降する音形(ラ・グランジュのいう「ため息の動機」)は、この曲で何度も変奏されることになるでしょう。Vnにハ長調で現れる旋律は、アリア1のような暖かな歌を生む要素です。そしてその裏ではCbが四度の「振り子バス」(つまりA)を奏でます。

続いて始まる語る調子で、表情をつけずにと指示されたレチタティーヴォ[18]は、順次長三度下降(Lとしておきます[19])してから五度上昇する形で、ちょうど第1楽章の歌い出しの裏返しになっています。そしてFlが、Obの回音を展開して、人間の独唱に対する自然(大地)の歌とでもいえるような精妙な対旋律を奏でます。

ゆったりしたハ長調で「おお見よ! 銀の小舟のように」と歌われ(ミッチェルにならってアリア1としておきます。第1曲の酒の歌のアウフタクトを逆転した旋律が含まれます)、月明かりに照らされて表情が和らぎます。しかし旋律の最後「のぼって(herauf)」で短調に転じるとClHpの低音が四度の振り子を導入し、これが「私は感じる」に現れてまた虚ろな感じに戻っていきます。「暗い松の」では振り子が短三度に変わります。


2/2とても穏やかにとなってClHpがこの短三度振り子を3連符と2連符が交差するリズムで奏で始め、Obがヘ長調で変幻自在の旋律を歌います。「小川は歌う」と始まる柔らかな調べ(アリア2)は、今度はゆっくり上昇してα2で下降する形です。そして続く「花は青白く見える」でB'の順序を逆にした上行音形(重要なので小文字のbとしておきます)が姿を見せます。このアリアと並行して、FlObの旋律を引き継いで奏するのですが、マーラーはここで歌声部が「独奏フルートを遮蔽してはならない」と注記しており、レチタティーヴォと同じく人間と自然(大地)の歌が同時に立ち現れてきます。Dunkelとlichtの間に夢のごとく漂う「寂光の中で」を受けてVn少し動きを持って奏でる旋律には四度下降(つまりAの後半)が繰り返し出てきますが、ミッチェルはこの先の旋律の構成で重要な役割を担うものとして重視しています[Mitchell, p.389ff]。

レチタティーヴォが回帰すると、ここから歌は一人称となり、「私」の世界に入ってきます。そして変ロ長調に転じて、マンドリンとHpに導かれたFlbを反復しながらだんだん上昇の幅を広げていくと、Vn最上の優しい気持ちを込めてと記された旋律を奏ではじめます。独唱はこの旋律で「私は切に望む」(アリア3)を歌います。この調べは、長三度の順次下降Lで始まり、下から順次上って行って最後に短二度下降して元の音に戻る、という動きがレチタティーヴォと同じで、おそらくつながりを持つものです。

「私は歩く」では(琴を象徴するかのように、やはりマンドリンに導かれて)bの旋律が独唱に現れます。さらに「美しさ、永遠の愛、生命に酔いしれた世界」を情熱を込めて歌い上げて、前半のクライマックスを築きます。

Vn急速に下降し、三度の振り子がさまざまな楽器に現れた後、ハ短調で重々しく冒頭の世界が戻ると、管弦楽による長い中間部の開始です(マーラーは草稿のこの箇所に「Grabgeläute 弔鐘」と書き込んでいる[Hefling2000, p.105])。ここではβを反転させた(あるいはヘフリングが言うようにレチタティーヴォから導かれた)新たな動機が登場し、葬送行進曲のような足取り[20]で、ため息の動機を伴いながら振幅激しく展開されていきます。

レチタティーヴォが戻って再現部の形を見せるところからが、王維の「送別」に基づく部分です。ここはマーラーがベトゲの訳詩に手を加えて「彼」と「かれ」を登場させ、外部の語り手が情景を説明するかのような場面になっています[21]。そして「かれは語った」と、語り手がその言葉を紹介する形を取りながら、その話にズームインするように再び「かれ=私」が主語となって非常に柔らかく表情豊かに「君よ、私の友よ」と歌い始めます(アリア1の一部を利用)。

「やすらぎを、私の孤独な心のために」には中間部の動機も用いられますが、ここまでがハ短調/長調で、レチタティーヴォからのまとまりをなしています。2/2ヘ長調の振り子は今度はEHrによる3連符で、「私は歩く」からアリア2を非常に甘くそして微かに歌います。

その時を待つ静かな心に至った「私」は、最後に普遍の大地を、そしてマーラーが加えた《春には新しく花が咲き緑になる》を、ハ長調になったアリア3の旋律で歌います。第1曲で提示された生と死の拮抗は、新たな生命を育み続ける大地に回収され、暗やみは遠い彼方の青い光となる[22]のです。FlObが上昇するb(生まれてくる命)を奏で続ける中、独唱がゆっくりLの長三度下降(別れを告げる生命)で「永遠に」を繰り返します。チェレスタが響き、木管の上昇はミ-ソ-ラ、「永遠に」はミ-レの下降[23]だけになり、最後にC-E-G-Aのハ長調付加六度和音[24]が伸ばされ、完全に消滅してしまうように曲を閉じます。

試訳について

マーラーによる「大地の歌」の歌詞を、できるだけ音楽のフレーズに合わせて訳すことを試みたものです。特に、フレーズの最後や長い音が与えられた語句は可能な限りその位置において、音楽の表現に添うように務めています。

改行位置は、原則として[Mitchell]に従い、一部ベトゲの詩に合わせたり、マーラーのフレーズに合わせました(第2楽章第3節、および第4楽章第2節、また第6楽章の一部。訳注参照)。また行頭の大小文字も、原則として楽譜に書かれたとおりにしています。マーラーの歌詞は管弦楽稿を用い、ピアノ稿との差異がある場合は訳注に記しました。

歌を聞きながら詞を目で追うのに最適

岩波書店『図書』の池澤夏樹氏連載「詩のなぐさめ」(2013年10月号)で、本試訳が取り上げられました。

それでマーラーをもっと聴くに気になって、帰りの飛行機の中でもずっと耳元で鳴らしていた。その一つが、当然ながら「大地の歌」。……歌だからドイツ語の歌詞が気になる。李白など中国の詩をもとにしたというが、どういう翻訳なのだろう。第四曲「美について」を精読してみた。敢えて元の語順を残した直訳調の神崎正英の訳で、歌を聞きながら詞を目で追うにはこれが最適――

第19回「李白からマーラーまでの二転三転」

音楽のフレーズに合わせた試訳の狙いを評価していただきました。

補足

  1. 中国の笛 ^: ベトゲの詩集Die Chinesische Flöte(1907)は唐詩を直接翻訳したものではなく、1905年に出版されたハンス・ハイルマンの独訳詩集『シナの詩』、またその元になった仏訳詩集であるエルヴェ=サン=ドニの『唐詩』(le marquis d'Hervey-Saint-Denys, Poésies de l’époque des Thang, 1862)とジュディト・ゴーティエの『玉書』(Judith Gautier, Le livre de Jade, 1867初版の漢字表題は『白玉詩集』1902改版で『玉書』。仏題を訳して『硬玉の書』と呼ぶことも)を、かなり自由に翻案したもの。この背景は[富士川]に簡潔にまとめられています。また[Mitchell, pp.435-443][La Grange, pp.1296-1311]も。各詩のテキストは大地の歌:原詩からの変遷を参照してください。

  2. ピアノ稿 ^: ピアノ伴奏によるバージョンは、校訂者ヘフリングによれば、管弦楽稿の編曲や作曲する上でのスケッチではなく、管弦楽稿と並行して作曲され、ピアノの効果を考えた表現が与えられたもの。これを用いた演奏は透明感があり独唱も無理を強いられていないのでなかなか良いのですが、歌詞やいくつかの音の重要な違いをみると、稿としての完成度は(楽章によっては)管弦楽稿の一歩手前という印象が拭えません。作曲の過程や管弦楽稿との違い、それがもたらす管弦楽稿の校訂版の見直しなどについては[Hefling1992]に詳しく述べられています。

  3. 第1曲の原詩 ^: [富士川, pp.271-278]はハイルマンの影響を受けたリヒャルト・デーメルの詩集『けれども恋は』(Aber die Liebe, 1893)の「シナの飲酒の歌」(Chinesisches Trinklied)の原詩が「悲歌行」であることを示しており、これを受けて吉川はベトゲ/マーラーの原詩も「悲歌行」だと注で述べています[吉川, pp.216-218]。富士川によればドイツの詩人たちはこれを傑作と考え、このあたりから李白が「世界苦を歌い、人生の無常と永遠の陶酔を歌った、酒と放浪の詩人」と解されるようになったということです。

    一方で、「李白としては、ぞんざいに過ぎ、真作でないと、宋の蘇東坡は『東坡題跋』でいう」と吉川が触れるような贋作説があったり、あるいは富士川が「李白らしからぬ、理に勝った低調さ」と述べたりしているのは、おそらく(ここでは用いられていない)後半部分によるのでしょう。故事の引用ばかり並べ立てられていて、確かに「理に勝った」という感じは否めません。それに対して大地の歌に辿り着いた前半は、吉川が全体として「感情はいかにも李太白的である」と評価し、また[宇野, pp.348-353]が「李白の最後の情熱が燃え上がったような大作」と述べるのに相応しいものだと思います。

  4. 旋律の方向性 ^: この曲においては旋律の方向性がとても重要。ミッチェルは「それはただ落ちるために昇る、ただ崩れるために上昇する」と述べています[Mitchell, p.179]。上昇のエネルギーで下降する形はAから導かれたものです(実際この旋律線はAを順次進行で歌ったと見ることもできるでしょう)。

  5. リフレイン ^: Dunkelという言葉が印象的なこのリフレインは、テキストだけを見ると厭世観や絶望、あるいは世界苦の表明のようですが、訳注にも記したとおり、ここで音楽は一本調子に暗さを表現しているわけではありません。ミッチェルはこのリフレインについて「単純で魅力のない絶望の表現を越えた作品を作ろうとするなら、あまりにもむき出しの虚無的な表現の制約を、作曲上の手法によって克服しなければならなかった」と書いています[Mitchell, p.182]。また渡辺美奈子は、ジャン・パウルとの関係を挙げながら「無常観だけではなくマーラーは自分の作品の中に非常に多様な概念を詰めこんだ。…天上と大地、生と死などの対立した概念ですら、両者の作品には同時に存在する」として、示唆に富む考察をしています(ただしマーラーのこの曲には「天上」の概念は出てこないのですが。なお渡辺は、このリフレインの旋律がシューマンの「交響的練習曲」の主題とほぼ同じであることも指摘しています)[渡辺]。

  6. 酒の歌のLenz ^: マーラーのスケッチには、第3節のイングリッシュ・ホルンの始まり(206小節目)に相当する箇所に"Lenz"と書き込みがあるそうです[Mitchell, p.192]。独唱が大地の春を歌う前の、管弦楽部分もこの第3節の世界を描いています。

  7. ニ長調 ^: 興味深いことに、マーラーはこの曲で徹底的にニ長調を避けているように見えます。調号がニ長調(♯2つ)になるところは全曲で1箇所もなく、「Jetzt nehmt den Wein」で響くDの和音も、調号の上ではイ長調のサブドミナントです。ニ長調は次の第9交響曲のために温存したのか、あるいは生と死の問題を大地の上で解決させるために神/天国を表すことの多い調性を避けたのか、深読みし過ぎるべきではないにしても、全くニ長調が使われないのは偶然ではないように思えます。それだけに、不気味な影を乗り越えて酒杯を交わすところでHrが1オクターブ上昇して響くこのニ長調の和音は、とても印象的です。

  8. 第3リフレインの調性 ^: ピアノ稿では、最後のリフレインは何と全体が長調(Leben, istがFis-E-Cis)になっています。ヘフリングは、これはマーラーの初期のアイデアを反映しており、続く終結部との差が大きすぎるなどの理由で変更したのだろうと考察しています[Hefling1992, pp.313-314]。

  9. 第2曲の原詩 ^: ラ・グランジュの英訳版(2008)は1995年の浜尾論文[Hamao]を参照して「效古秋夜長」としています[La Grange, p.1336]が、原著(1984)でどうなのかは未確認。吉川の意見では、ベトゲの記す作者名Tschang-Tsiを銭起とするのは無理があり、念のため銭起の詩集をあたってみたが原詩と考えられるものはなかったということです[吉川, p.211]。ミッチェルは中国や香港の研究者にも照会してかなり詳しく検討し、「效古秋夜長」の可能性もあり得るとしながらも、本文では原詩を示さず、注での紹介にとどめています[Mitchell, pp.455-458]。

  10. 第3曲の原詩 ^: ミッチェル[Mitchell, pp.461-462]、吉川[吉川, p.211]らは特定不能としていますが、浜尾房子は李白の「宴陶家亭子」が原詩であるとする研究を発表しました(『音楽芸術』1989年11月号、論文は[Hamao])。ラ・グランジュは浜尾論文を参照して「宴陶家亭子」を原詩と紹介しています[La Grange, p.1342-1343](1984年の原著を参照した[最上2003]には「第3楽章だけは原詩が不明とされている」とあり、英語版での改訂かも知れません)。

    門田眞知子は李白が同じ頃に作詞した「登単父陶少府半月台」を挙げて、ゴーティエが両者を「セットだと判断したか、彼女自身の嗜好から一つにまとめあげ、それに無理がないと判断した」という説を示しています[門田, pp.78-83]。「登単父~」の詩には「築台像半月」「水色淥且明 令人思鏡湖」といった表現があり、「宴陶家亭子」単独で考えるよりも源泉を探りやすいことは確かです。

    浜尾はゴーティエが“人名の『陶』氏の亭を,普通名詞の『陶器』の亭と取り違えてしまった”ことによる誤訳としています。しかし、原詩を忠実に訳そうとしているのならばともかく、李白からインスピレーションを得てはいても、全体的に元の詩とは大きく離れた創作なのだから、そんな差異をあげつらってもあまり意味はないでしょう。芥川龍之介も、「陶器の亭」を含むゴーティエの訳詩集『パステルの龍』で“まづ八分までは女史自身の創作と心得て然るべきであらう”と書いています。

  11. ミニチュアの世界 ^: 陶磁器でできた建物というと、パゴダのようなもの、あるいはルイ14世がベルサイユ宮殿につくった「磁器のトリアノン」(もろくて寒いので十数年で大理石に建てなおされた)などが思い浮かぶかもしませんが、もう一つ考えられるのが、陶磁器製のミニチュアハウスです。精巧なドールハウスのコレクションは16世紀頃から行なわれていたようですから、ゴーティエの家にもそういったものがあったかも知れません。フェーヴ(陶製のおもちゃ)入りのお菓子が盛んになるのは19世紀末でゴーティエの訳よりも少し時代が後ですが、大地の歌が作曲された頃はフェーヴの黄金時代だったそうで、ライプチヒに住んだこともあるマーラーがDer Pavillon aus Porzellanからマイセン磁器のミニチュアを連想してもおかしくはなさそうです。

    (ミニチュアならば、陶磁器の東屋を見つけることは難しくない)

    陶磁器製ミニチュアでも、陶器の壺に描かれた絵でも、どちらでも構わないのですが、それらを眺めているうちに、その世界が動き始め、青春の日々の想いと重なる。この曲はそういったイメージで捉えられるのではないでしょうか。幻というか夢のようなものを描いているのであれば、陶器でできた東屋なんてあるわけないとか、誤訳だとか言っていては、つまらないのです。

  12. 鏡像と旋律 ^: ヘフリングによれば、マーラーの原案では続くumgekehrt der Bogenの部分も対称形に近い形で書かれていました[Hefling1992, p.325]。またミッチェルは、前半の旋律を一小節ずらして後半と並べてみる(つまり前半の20小節目=Wie derを、後半のwie einではなく次の207小節目のHalbmondに合わせて上下に並べる)と旋律線が見事に上下反対に動くことを示しています[Mitchell, p.262]。

  13. 絵の中に消えていく ^:アドルノは第3曲の終わりについて、ブロッホを参照しながら「自分の絵の中に消えていくあの中国の画家の話を、つまり虚無的でしかも消しがたい証を想い起こさせる」と書きました。第3~5楽章の歌詞は、生の約束、あるいは期待される幸福として知覚された無限に多くのものを、「そうしたものがまだ可能であった子供時代を眺める」ことによって救い出す瞬間だとし、そのようにして描いたものが「縮小されること、消え去りゆくことは、その中で音楽が没落して行くものを見守るところの、死の現象である」と述べています[アドルノ, p.195]。

  14. 第4~6曲の原詩 ^: 吉川は第4曲に至ってはじめて原詩の見当がつくとし(吉川の初稿では第1曲も不明としていたため)、第5曲も「全六楽章のうち、もっとも原詩に近い」のですぐわかると述べます。第6曲も「二つの詩とも、ベトゥゲではなお原詩に忠実である」とはっきり示しています[吉川, pp.212-215]。第1、4~6曲はサン=ドニの仏訳がベースになっており、その訳がかなり忠実であったことから、問題なく原詩が特定できた、一方で第2曲、第3曲のベースになったゴーティエの仏訳は自由な翻案に近いものがあり、人名も不正確だったことが、原詩特定困難の要因になったとされます。

    というとゴーティエの訳が劣るような印象を与えるかも知れませんが、例えば孟華はゴーティエの訳について「原詩のテーマ、境地に基づいて加工してできた」もので、さらに「原作の隠喩もある程度伝えた」とし、ヴェルレーヌがベルトランに比して「私は『白玉詩書』のほうがもっと好きである」と述べたことなどを挙げて、当時のフランス詩壇で高く評価されていたことを示します。さらにゴーティエの詩集によって中国詩歌への興味を触発されたからこそ、忠実だが読みにくいサン=ドニの『唐詩』が読まれるようになったのではないか、とも述べています[]。門田も「彼女は一つ一つの中国詩の世界を咀嚼した上で、彼女の西洋的世界を訳の上に構築してゆく趣がある」とし「出版されるやいなや、ユーゴーやボードレール、ルコント・ド・リールなどの文学者がこの書物とそれを著したジュディットを称賛した」と紹介しています[門田, pp.87-93]。

  15. 失われた時を求めて ^: なぜかこの曲でプルーストの『花咲く乙女たち』を思い出し、しかしうまく説明できないのでいったん書いたメモを消していたところ、アドルノを読み返して、そうだったかと。「プルーストと同様、マーラーもまた彼のイデーを子供時代から救い出した。彼にとっては病的なまでに取り替え不可能なもの、何かに換えることのできないものが、それでもなお普遍的なもの、すべての人々の抱く秘密となったということは、彼が同時代の他のどの音楽よりも秀でている点である」[アドルノ, p.186]。

  16. 第3~5曲の位置付け ^: この3つの楽章はシリアスな要素が背後に退き、音楽的にもつながりがあることから、第3~5曲をスケルツォと見立て、第2曲を緩徐楽章、両端の曲をソナタ形式と捉えることで、伝統的な4楽章の交響曲のような構成とする解釈はしばしば見かけます。これに対してミッチェルは、この見方を「気持ちはわかるが誤解を招くだけ」で、この曲を古典的交響曲の枠組みで捉えようとしても「無益だ」と述べています[Mitchell, p.173]。

    ついでに、第4曲(の真中の賑やかなところ)が全曲の中心で、3-5、2-6前半(!)、1-6後半(!!)がそれぞれ対応するシンメトリー構造であるという説を柴田南雄が披露し、いろんなところで受け売りされているようですが、そんな(以下略…)

  17. この世のものではない ^: [La Grange, p.1361]から孫引き。ウェーベルンはベルクに宛てた手紙でこの箇所を「まったくこれまでで最も謎めいたことだ」とも書いています[Hefling2000, p.63]。アドルノは、夢のように鳥の声を聞くとき「彼はもう一度戻りたいのだが、それはむなしい。彼の孤独は、絶望と絶対的な自由という快楽との間の酔の中に、すなわちすでに死のゾーンの中に渦巻いている」と述べています[アドルノ, p.196]。ミッチェルもこの高低両極端に配置された音の重なりを「天国と地獄の間に宙吊りになって回復不能に分裂してしまった主人公」と見ています[Mitchell, p.323]。酔っぱらいの夢うつつの桃源郷は、あちらの世界と背中合わせです。

  18. レチタティーヴォ ^: ミッチェルは第6曲全体を「厳格」と「自由」の対比という観点で捉え、基本的に有節形式の枠組みを持つ前5楽章にはなかった新しい自由な性格が、まずこのレチタティーヴォに現れること、また第6楽章の儀式的あるいは劇的性格を示すものとして(バッハの受難曲などに近い)レチタティーヴォの役割を分析しています[Mitchell, p.356-358])。

  19. G-F-Es ^: この長三度下降は、ベートーベンの「告別」ソナタ冒頭でLe-be-wohlと書きつけられた音と同じ。そしてこの音形は最終節でDie liebe Erdeと歌われます。lebewohlでありliebeである動機なので、唐突ながらLとしておきます。

  20. 葬送行進曲 ^: 上述のとおりミッチェルは第6曲全体を「厳格」と「自由」という観点で捉えていますが、前者の中心がこの葬送行進曲であり、ここで主人公の死が明確になるとともに祝福されるのだといいます[Mitchell, p.359-363]。一方ラ・グランジュは、マーラーにおける葬送行進曲はもっと客観的に距離をおいた描き方で、この曲での主観的な表現はむしろ「葬送の瞑想」とでも呼ぶべきだと主張しています[La Grange, p.1377]。

  21. かれ、あるいは主人公 ^: この部分の代名詞が曖昧であることから、音楽学者の間でも解釈が違ったりするようですが([La Grange, pp.1365-1366][Hefling2000, pp.113-114]、特に[Mitchell, pp.425-432])、音楽として考える上で、楽章の前半と後半の主人公が別人(私と友)と捉えるのは難しいでしょう。訳注にも書いたように、「彼」と「かれ」は分身のようなものかも知れず、さらに言えば三人称を使って状況を語る語り手も分身かもしれません。マーラーが「最も個人的なもの」と呼んだ作品であることをふまえれば、みな作曲家の分身だと言ってもいい。分身に別れを告げるとは、人生に別れを告げることを意味しているとも言えるでしょう(原詩の王維『送別』も、自分の心境を詠った架空の問答とする注釈書が少なくないというのは興味深いところです[田口])。個々の代名詞の検討は訳注を参照。

  22. 遠い彼方の青い光 ^: 第1曲のリフレインで光のないDunkelを歌ったこの曲は、全曲を通して光を求めてきたと見ることもできるでしょう。各曲で表現されている光を並べてみると、次のような感じになります。

    • 第1曲:Dunkel(暗やみ)
    • 第2曲:私の小さな灯(Meine kleine Lampe)→愛の太陽(Sonne der Liebe)
    • 第3曲:水面の鏡(Wasserfläche ... Spiegelbilde)
    • 第4曲:金色の太陽(Gold'ne Sonne)
    • 第5曲:夢うつつのよっぱらい→お月さが輝くまで(bis der Mond erglänzt)
    • 第6曲:夕暮れそして月(Sonne scheidet, der Mond am blauen Himmelssee)→暗やみ/小川そして寂光/花(durch das Dunkel, im Dämmerschein)→夕べの美しさ(die Schönheit dieses Abends)→青く光る遠い彼方(blauen licht die Fernen)

    ミッチェルは各曲が描く季節を比較していますが、光の表現に注目してみるのも、全体の構成とその中での位置づけを捉える手がかりになるのではないかと思います。

  23. ミ-レの二度下降 ^: 大地の歌と交響曲第9番は動機的にもさまざまな関係があり、同じ二度下降が第9番第1楽章の主題に用いられている(ニ長調なのでFis-E)こともその一つといえるでしょう。なお、バロック音楽においてレガートの二度下降音形が「ため息音形」と呼ばれることから、この主題が「ため息動機」とされていることがあります。本稿ではラ・グランジュにならって休符をはさみながら二度ずつ下降する音形を「ため息動機」と呼んでいるので、少々混乱するかも知れませんが、いずれもマーラーがそう名づけているわけではありません。

  24. ハ長調付加六度和音 ^: 木管の上昇音とEwigの到達音が最後は垂直に重ねられ、C-E-Gのハ長調(愛しい大地)と、A-C-Eのイ短調(第1曲冒頭)の二つの世界が同時に響いて曲が閉じられます。エルヴィン・ラッツが述べているように、この最後の和音から第1楽章の主題をはじめさまざまな旋律が導かれたと見ることもできます。「大地の歌」の影響を受けたと言われるツェムリンスキーの「抒情交響曲」なども、最後をこの付加六度和音で閉じています。

参考文献

主に参考にした文献:

参照楽譜: