ドイツ・レクイエムの歌詞と音楽

ブラームスの合唱+管弦楽の大傑作、ドイツ・レクイエムを演奏する機会に、その曲の構成と歌詞について掘り下げて調べたことをまとめたものです。ブラームス独自の人生観(あるいは死生観)によって編纂された歌詞をじっくり読むと、曲が一層味わい深くなるのではないかと思います。

曲の概要

曲名
ドイツ・レクイエム 作品45
Ein deutsches Requiem für Soli, Chor und Orchester op. 45
作曲時期
1856?/68
初演
1867-12-01@ウィーン:ヨハン・ヘルベック指揮 (第1~3曲)
1868-04-10@ブレーメン:ブラームス指揮 (第5曲を除く)
1869-02-18@ライプチヒ:カール・ライネッケ指揮 (全曲)
楽章構成
  • 第1曲: Selig sind, die da Leid tragen
  • 第2曲: Denn alles Fleisch ist wie Gras
  • 第3曲: Herr, lehre doch mich
  • 第4曲: Wie lieblich sind deine Wohnungen
  • 第5曲: Ihr habt nun Traurigkeit
  • 第6曲: Denn wir haben hie
  • 第7曲: Selig sind die Toten

※曲名は自筆譜の各曲扉に書かれているタイトルによる

楽器編成
Pic; Fl:2; Ob:2; Cl:2; Fg:2; (Cfg:1; ) Hr:4; Tp:2; Tb:3; Tub:1; Hp:1; Timp; (Org; ) Str; Sop; Bas/Bar; Choir
ノート

ブラームスは、20歳のときにシューマンのエッセイ『新しい道』で紹介され、脚光を浴びます。以降ブラームスは、室内楽作品では高い評価を得てゆきますが、“時代の最高の表現を理想的な方法で表出する使命”という期待に正面から答えたのは、その15年後、1868年に完成したドイツ・レクイエムによってでした。初演後のスピーチで、「巨匠の後継者は、やり始めた仕事を全うする」と彼は述べ、それから4つの交響曲をはじめとする大規模な傑作を生み出してゆくのです。

ドイツ・レクイエムは、ラテン語の典礼文ではなく、ブラームスがルター訳の聖書から選んだ章句で構成されます。テキストは元の文脈を離れて、人間の苦悩や儚さ、働きと忍耐、そして慰めと報いと喜びを表現する、いわば《生者のためのレクイエム》として配列されました。

全体は7つの曲からなり、次第に力を増す第1~3曲、安らかな第4、5曲、激動から静に戻る第6、7曲の3群のアーチ構造と見ることができます。この3群はテキスト上もそれぞれ、苦悩から希望へ、喜びと慰め、復活と報いというテーマに対応します。また調性の面でもこの3群による緻密な構造があることが、研究者によって示されています(第5曲のみ1868年の初演後に加えられ、テキスト、構造を強化しています)。

各曲の詳細

レクイエムを構成する7つの曲それぞれについて、歌詞の対訳(試訳)、訳注、音楽上の構成、概要説明と譜例の順で紹介します。

第1曲

Selig sind, die da Leid tragen,祝福されたるは、悲しみを負うひと、
denn sie sollen getröstet werden.彼らは慰められるのですから。
マタイ福音書 5:4
Die mit Tränen säen,涙とともに種を播くひとは、
werden mit Freuden ernten.喜びとともに穫りいれるでしょう。
Sie gehen hin und weinen彼らは出でゆき、そして涙し
und tragen edlen Samen,そして大切な種を負いゆき、
und kommen mit Freudenそして喜びとともに戻り
und bringen ihre Garben.そして実りの束を携えてきます。
詩篇 126:5/6
  • Selig sind, die da Leid tragen : マタイの「山上の垂訓」の一節
    • Selig : 天にも上る心持の、至福の。元のギリシャ語makarios(マカリオス:完全な、これにまさる幸福はない)は、ピンダロス以来のギリシャの詩文において「神々や人間が非常に大きな幸福を享受しているとき、その(超地上的な)幸福をさしていた」(ギリシャ語新約聖書釈義事典)。英訳ではBlessed。
    • Leid : 悲しみ、苦しみ(leid : 気の毒な); tragen : 運ぶ、背負う。「die da Leid tragen」は「悲しむ人」で十分だが、次の詩篇126:6の「tragen edlen Samen」で使われる「tragen」と同じ訳語を与えたいので、「悲しみを負う」としている。Leidtragendは受難者という意味もある。
    • getröstet werden : 慰められる。trösten(慰める、元気付ける、安心させる)、Trost(慰め)は、第3、5曲でも現れる、seligと並ぶキーワードのひとつ。ギリシャ語はparakaleo(近くに呼ぶ、慰める;名詞形はパラクレーシス:慰め、励まし、嘆願、警告)。
    マタイでは、「心の貧しい者」から始まって9つの《幸い》が列挙されるが、並行するルカ福音書第6章(平地の説教)では「貧しい者」「飢えている者」「泣いている者」「人々があなたたちを憎むとき」の4つで、ルカの方がイエスの言葉には近いと言われる。ルカ6:21の「幸い、今泣く人、あなたたちは笑うようになる」における、二人称の呼びかけ、直接的な泣く、笑うという表現に比べ、マタイの句は良くも悪くもより普遍的で精神主義的な響きを帯びる。

    「泣く」が「悲しむ」に言いかえられた時、俺達は今泣いているけれども、俺達こそが真の笑いを知っているのだぞ、という主張、俺達は今泣いているけれども、きっと笑ってみせてやる、という強い挑戦は姿が消えて、「悲しむ者はいつか慰められる」と変えられる。悲しんでいる人たちも慈善をほどこしてもらえるから安心しなさい。「泣く」「笑う」の主体的な対比は、「悲しむ」「慰められる」の受身的な対比に変えられる。(田川建三『宗教とは何か』)

  • 詩篇126章は前半で(おそらくバビロンの)捕囚からの帰還を歌い、後半がこの種まきの歌。帰還はもちろん大いなる喜び(第2曲で引用されるイザヤ書35:10)だけれども、捕囚から全ての人が一度に帰還できたわけではなく、また戻ってからも土地は枯れ生活も困難を極めたということで、ここには悲しみとそれを乗り越えた喜びへの期待が歌われている。レクイエムの歌詞としては、マタイの“悲しみ→慰め”を、より詩的な表現で増幅することになる。(シュッツも同じDie mit Tränen säenの部分に作曲している。こちらは、もう少し悲しみの要素が強い印象の曲)
  • Freude : 喜び。この曲ではまだ控えめな感情で、たとえばmit Tränenは音が上昇してクレシェンドで歌われるのに対し、mit Freudenは下降音形のデクレシェンドになっている。第2曲ではこの喜びが爆発し、第4曲(freuen sich)、第5曲では神とともにある喜びとなる。(ただし、ここでの聖書のヘブライ語rinnah(リンナー)は喜びの叫びを上げるという意味になるので、たとえば新共同訳では「喜びの歌とともに」。)
  • 概ねブラームスが作曲したフレーズ単位に改行して表記しているが、こうしてみると、全ての行末がenで脚韻を踏む形になっている。
  • 曲想標語の「Ziemlich langsam und mit Ausdruck」は「ややゆっくりと、そして表情をこめて」。「Ziemlich langsam」を「非常にゆっくりと」と訳してしまうことがあるが、ziemlichは「ある程度」の意味で、「Langsamほどは遅くないが、すたすた行ってしまわないで」というテンポ。ブラームスは当初、この曲に四分音符=80のメトロノーム記号を加えていた。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-46ヘ長調 4/4Ziemlich langsam und mit AusdruckSelig sind
bb. 47-105(変ニ長調 - ヘ長調 - 変ニ長調)Die mit Tränen säen
bb. 106-158(ヘ長調)Selig sind

低音の鼓動に支えられて徐に立ち上った序奏コラール(譜例①)がまた靄の中に沈んでいくと、雲間から光が射すかのごとく合唱が「Selig sind」と呼びかけます。「Selig」はドイツ・レクイエムのキーワードともいえますが、この「ドミファ」の動機(譜例②のA)も全曲を通じて形を変えながら何度も登場し、音楽面でもSeligが重要な役割を担います。

序奏の一節が繰り返された後、この動機はマタイ福音書「祝福されたるは、悲しみを負うひと」の歌となります。パレストリーナ風の対位法による美しいア・カペラです。中間部は詩篇126章で、働くひとの涙が喜びに変わってゆく様が見事に描かれます。結尾部で「祝福されたる」が戻ってきたあと、最後にSelig動機の鏡像(譜例③のB)を用いて「慰められる」が歌われ、安らかに曲を閉じます。

第2曲

Denn alles Fleisch es ist wie Gras人はみな草のごとく
und alle Herrlichkeit des Menschen人間の光栄はみな
wie des Grases Blumen.草の花のごとし。
Das Gras ist verdorret草は枯れ
und die Blume abgefallen.花は散る。
第一ペテロ書簡 1:24
So seid nun geduldig, lieben Brüder,だから今は耐え忍びなさい、愛しい兄弟よ、
bis auf die Zukunft des Herrn.主の来たるその時まで。
Siehe ein Ackermann wartetごらんなさい、農夫は待っています
auf die köstliche Frucht der Erde大地の尊い実りを
und ist geduldig darüber,そして耐え忍んでいます、その上に、
bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.朝の雨と夕べの雨を迎えるまで。
ヤコブ書簡 5:7
Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit.しかし主の言葉は残る、永遠に。
第一ペテロ書簡 1:25
Die Erlöseten des Herrn werden wieder kommen主に救われた人々はふたたび戻り
und gen Zion kommen mit Jauchzen;シオンへと歓呼の声とともに来たらん;
ewige Freude wird über ihrem Haupte sein;永遠の喜びを頭上にいただき;
Freude und Wonne werden sie ergreifen喜びと歓喜をつかみとり
und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.そして苦悩と嘆息は消え去らん、必ずや。
イザヤ書 35:10
  • Denn alles~は、第一ペテロ書簡で1:23「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」に続いて引用されている言葉。最初にいきなりDenn(なぜなら)が来るのはこの前文を受けているからで、alles以下が引用されている内容ということになる(もっとも、歌詞として読むなら、《人はみな草のようなものだから、その光栄も草の花のようなものだ》でもかまわない)。この引用は、1:25の「しかし主の言葉は残る、永遠に」と一続きのものだが、ブラームスは間にヤコブ書簡を挟んで、人間の空しさ、悲しさを強調しつつ、“永遠の言葉”を劇的なブリッジにして、歓喜のフーガに結び付けている。
    引用元はイザヤ書40:6-8(6)Alles Fleisch ist Heu, und alle seine Güte ist wie eine Blume auf dem Felde. (7)Das Heu verdorret, die Blume verwelket; denn des Herrn Geist bläset drein. Ja, das Volk ist das Heu. (8)Das Heu verdorret, die Blume verwelket; aber das Wort unsers Gottes bleibet ewiglich. 内容はほぼ同じだが、ブラームスは曲後半のフーガではイザヤ書を採りながら、前半をペテロ書簡にしたのは、こちらのほうが簡潔で力強いと感じたのか。また、歌詞はalles Fleisch es istとなっているが、ルター版聖書にはこの「es」はなく、ブラームスが(旋律の流れをよくするために?)追加したもの。
  • ヤコブ書簡5章は、富んでいる人は本当は幸せではないことを示した上で、それと対比する形で忍耐と祈りが重要であることを説く。ブラームスはその中から忍耐についての節を取り出して、ペテロ書簡の間に挿入した。耐え忍ぶことは悲しみ/涙と裏表であり、それが実りに結びつくという構図によって、この曲を第1曲と強く結びつけている。
  • Herrlichkeit : 光栄、繁栄。ギリシャ語ではdoxa(ドクサ:栄光)。
  • geduldig : 耐え忍ぶ、我慢強い < dulden(じっと我慢する)。ギリシャ語はmakrothumeo(マクロシューメオー:忍耐する、根気よく待つ)で、よく知られた用例には第一コリントス書簡13:4の「愛は忍耐強い」がある(が、ルター版ではDie Liebe ist langmütigなので少し違う)。第二ペテロ書簡3:9の「神は忍耐している」だと、hat Geduld。
  • Zukunft : 未来、将来、来臨のとき < zukommen(近づいてくる)。
  • lieben Brüder: ギリシャ語にも英語版、日本語版、エルバーフェルダー版ドイツ語聖書にも「lieben」に相当する語は見当たらず、ルター版独自の解釈のようだが(かつ、ルター版ではliebe Brüder)、聖書の解説ではなく歌詞対訳なので、ドイツ語を尊重して「愛しい兄弟よ」。
  • den Morgenregen und Abendregenの部分は、聖書においては「前の雨と後の雨」と訳すのが普通で、現代のルター版聖書でもden Frühregen und den Spätregenとなっている。これは、この地で種を播く時期=秋と、実りの時期=春の雨を表しているので、新共同訳のように「秋の雨と春の雨」と訳すこともある(エレミヤ書5:24、申命記11:14も参照)。
    しかしここは、ブラームスが用いたルターの1545年版にしたがって、そのまま「朝の雨と夕べの雨」とする。「朝の雨」の部分では音が上昇してゆき、「夕べの雨」では下降するといった具合に、朝夕の方が音楽にも合っている感じ。ブラームスは後に、ケラーの詩「Abentregen」に曲をつけている(Op.70の4曲目)
  • イザヤ書は、預言者イザヤが見た幻影を記したものとされる旧約聖書最大の預言書。その第35章は、災いと裁きによって破滅したシオンの都に、神によって栄光が回復され、人々が戻ってくる様を描く。最後の審判とそこからの救済にも通じる預言だが、ブラームスは救いの部分のみを採り、「人はみな草のごとく」から続けることで、空しい人間が神によって救われ、喜びを与えられるという展開としている(通常バビロン捕囚からの帰還とされるが、イザヤはその200年前の人なので、捕囚を預言したと考えるか、別の著者が後日記述したということになる。またイザヤ書51章には、エジプトを脱出してシオンに入ったことを回想して、ほとんど同じことを述べる節がある)。
  • Erlöseten : 救済された、解放された。ここのヘブライ語はpadah(救い出された)、英語版ではransom(ed)(捕虜などを買い戻す、罪を贖う)。新共同訳のように「主に贖われた人々」でもよいのだが、「贖い」という言葉は「贖罪」を連想させたり「償い」と混同されやすく、ブラームスが慎重に避けている領域と重なってくるので、「救われた人々」としておく(贖い、救済については議論が複雑なので、これ以上立ち入らない)。
  • Freude und Wonne : 喜びと歓喜。Wonneは無上の喜び、高揚した歓喜といったニュアンスを持つ。第4曲に出てくるwohnen(住む)と語源的に関連がある。曲としては、この直前のewige Freude(永遠の喜び)と合わせてFreudeのほうに重点が置かれ、爆発する喜びが描かれる。ヘブライ語聖書では、このFreudeはsimchah(シムハー:宗教的、祝祭的な歓喜)に相当する。Wonneはsasown(サソン:喜び)の訳。
  • Schmerz : 苦痛、苦悩。肉体上の苦痛のときは複数形になることが多いので、ここでは精神の苦悩か; Seufzen : 嘆息。宗教曲にはしばしば登場する。これらの語の前でブラームスは、短二度上昇クレシェンド→短三度下降デクレシェンド(シ<ド―>ラ)という不安な音を低音で奏させ、晴れわたるフーガの中にさっと影がさすような、効果的な場面転換を行う。
  • wird weg müssen : 消え去らん、必ずや。苦痛も嘆息もなくなってめでたしというのではない。ここは預言の歌なのだから、全て未来形なのである。不安げな音で現実の苦痛や嘆息を思い出した上で、wird weg(消え去る)を徐々に高く強い音で歌い、müssenで預言のとおりになることを確信する。
  • 曲想標語の「Langsam, marschmäßig」は、ゆっくりと、行進するように。ブラームスの友人、アルベルト・ディートリッヒは「葬送行進曲」と呼んでいる;「Etwas bewegter」は、少し動きをもって
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-74変ロ短調 3/4Langsam, marschmäßigDenn alles Fleisch
bb. 75-126変ト長調 3/4Etwas bewegterSo seid nun geduldig
bb. 127-197変ロ短調 3/4Tempo I Denn alles Fleisch
bb. 198-205変ロ長調 3/4Un poco sostenutoAber des Herrn Wort
bb. 206-232Allegro non troppoDie Erlöseten des Herrn
bb. 233-302Freude und Wonne
bb. 303-337tranquilloewige Freude

神経質で起伏の多いオーケストラと対照的に、合唱がユニゾンで重苦しく「人はみな草のごとく」と歌い始めます(この主題は第1曲の序奏と関連しており、バッハのカンタータ第27番のコラールに基づくとする説が有力です)。

長調に転じた「だから今は耐え忍びなさい、愛しい兄弟よ」は、第1曲中間部に通じ、働き耐えるものへの、ブラームスの暖かい眼差しが感じられるでしょう。「朝の雨と夕べの雨」の部分では、情景描写も聞きものです。しかしこの穏やかな気分は、ふたたび「人はみな草のごとく」にかき消されてしまいます。

悲痛な空気を吹き払うのは、「しかし、主の言葉は残る、永遠に」の宣言です。そして、イザヤ書35章「主に救われた人々はふたたび戻り」による、起伏に富む生き生きとしたアレグロとなり、苦悩と嘆息が消え去った後、「喜びを」の余韻が残ります。

第3曲

Herr, lehre doch mich,主よ、知らしめたまえ、
daß ein Ende mit mir haben muß,終わりの定めあること、
und mein Leben ein Ziel hat,わが命の限りあること、
und ich davon muß.そこから去らねばならぬことを。
Siehe, meine Tage sind einer Hand breit vor dir,見よ、わが日は一掌に過ぎぬ、あなたの前では、
und mein Leben ist wie nichts vor dir.そして、わが命は空にひとしい、あなたの前では。
Ach, wie gar nichts sind alle Menschen,ああ、なんと空しいことか、全ての人は、
die doch so sicher leben.確かに生きているとしても。
Sie gehen daher wie ein Schemen,さまようこと影のように、
und machen ihnen viel vergebliche Unruhe;そして無意味なことに騒ぐ;
sie sammeln und wissen nicht,集め蓄えるけれども、知らないのだ、
wer es kriegen wird.誰の手にそれが収まるのかを。
Nun Herr, wes soll ich mich trösten?では主よ、何をわが慰めとすれば?
Ich hoffe auf dich.わが望みは、あなたにある。
詩篇 39:4-7
Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand正しいものの魂は神の手にあり
und keine Qual rühret sie an.そしていかなる苦痛も届くことはない。
知恵の書 3:1
  • 詩篇第39章から採られているのは、神に嘆き訴えるのは良くないことだと考えて控えていた詩人が、我慢できなくなって切々と語り始めるところ。
  • ich davon muß : わたしはそこから(去ら)ねばならない。詩的な表現で、断片的にポツポツ語っているので難しいところだが、davonという形で起点が示されて、そこから離れていかなければならない、と捉えると、daは前の「わが命」で“この世を去らねばならない”ことを表現している。ヘブライ語chadel(ハデル)は消えていく、拒まれるという意味で、新共同訳聖書では「いかにわたしがはかないものか」。音楽はこのフレーズに切なさをこめて何度も繰り返す。
  • gar nichts : 全く何もない。ヘブライ語のhebel(ヘベル)に相当するところで、この語に「息」という意味もあるところから、「息に過ぎない」と訳している聖書もある。英語版ではKing Jamesだとaltogether vanity、RSVだとa mere breathとなっている。人間の命は一息のように儚い、空しいということ。
  • so sicher leben : 確かに生きている。ヘブライ語のnatsab(柱、まっすぐに立つ、最良の状態)に対応する。英語版ではKing Jamesだとat his best state、RSVだとSurely every man standsで、口語訳・文語訳聖書は前者と同じく「盛りのとき」、新共同訳/関根訳だと「立っているようでも/いても」。意味するところは(本当は儚いのに)着実に生きている(ように見える)ということで、ここではドイツ語を直訳して「確かに生きている」とした。音楽は、(“盛り”を示すような勢いではなく)so sicherで上昇していって、lebenを最高音からシンコペーションで下降させながら3小節かけて歌う。生きていることを主張しつつ、その浮き沈み、不安定さを示すようでもある。
  • wes soll ich mich trösten : 私は何を慰めとすればよいのか。ここのtröstenはヘブライ語qavah(期待する、待つ)をかなり意訳している(英訳だとwhat wait I for?、新共同訳では「何に望みをかけたらよいのでしょう」)。結果として、第1曲のgetröstet werdenとことばの上でつながりができることになった。音楽としては、感情が高まっていく中でtröstenのtröが繰り返し浮かび上がり、慰めを必死で探る様を表しているようだ。
    ※wesは古ドイツ語の雅語で、現代ならwessen(wer/wasの2格)。Dover版スコア(1926年Breitkopf版の復刻)にはここにwessと書かれているが、こういうドイツ語はない(はず)。ルター版聖書ではもちろんwesで、新しい合唱譜もwesになっている。旧スコアのwessの由来は、今のところ不明。
  • hoffen : 期待する、望む。英語のhopeと同じで、ヘブライ語towchelethもほぼ同様。音楽は、hoffeが細かい音で探りながら上昇してauf dichにたどり着くという過程を何度も繰り返しながら、「望みは、あなたにある」ことを確かめていく。
  • Qual : 苦痛(深くて持続する)、苦しい試練、外的・内的な痛み。英語版(King James)ではtorment。知恵の書(ソロモンの知恵)は、第2章で神を信じない者について述べた後、第3章で神に従う人(Gerechten=義人)を対比させる。この曲のフーガでは、特にクライマックスでkeine Qualが繰り返し強調される。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-104ニ短調 2/2Andante moderatoHerr, lehre doch mich
bb. 105-163(ニ長調/ニ短調) 3/2Ach, wie gar nichts
bb. 164-172ニ長調 3/2Ich hoffe auf dich
bb. 173-208ニ長調 4/2Der Gerechten Seelen

影絵のような和音に乗って、バス独唱が詩篇39章「主よ、知らしめてください」をとぎれとぎれに歌います(譜例⑥)。合唱は、やや厚みと動きが加わったオーケストラを伴い、独唱を模倣してゆきます。「ああ、なんと空しいことか、全ての人は」から滑らさを加えた哀歌は、「では主よ、何をわが慰めとすれば?」と問いながら緊迫の度を高め、激白に至りますが、答えは得らないまま…。

これが希望に転じるのは、「わが望みは、あなたにある」と気づくからです。気持ちとともに音が徐々に上昇していったところで、「正しいものの魂は神の手にあり」の壮麗なフーガとなります(譜例⑦)。持続低音Dの地響きの上に、“巨匠の後継者”に相応しい高度な技巧で主題が展開され、「いかなる苦痛も届くことはない」を繰り返して力強いフォルテで締めくくります(フォルテで終わるのはこの曲と第6曲のみです)。

第4曲

Wie lieblich sind deine Wohnungen,なんと愛しいことでしょう、あなたの住まいは、
Herr Zebaoth !万軍の主よ!
Meine Seele verlanget und sehnet sichわたしの魂は切に求め憧れます
nach den Vorhöfen des Herrn;主の前庭を;
mein Leib und Seele freuen sichわたしの身そして魂は喜びを覚えます
in dem lebendigen Gott.生ける神の前にあって。
Wohl denen, die in deinem Hause wohnen,幸いなるひとよ、あなたの家に住むひと、
die loben dich immerdar.あなたを常に讃えるひと。
詩篇 84:1/2/4
  • Herr Zebaoth : 万軍の主。旧約聖書で神の表現として頻繁に用いられる言葉(モーセの十戒に「汝、神の名をみだりに口にすべからず」とあることから、神を直接名指さず、さまざまな表現で言い換えられた)。Zebaothはヘブライ語で軍を表すtsabaサバオス(のラテン語版Sabaoth=サバオート)から派生したもの。ラテン語レクイエムのサンクトゥスは「Sanctus Dominus Deus Sabaoth(聖なるかな、万軍の主なる神)」で始まる。強面みたいな感じの言葉だが、音楽としては愛しさに満ちた表現なっている。
  • verlangen : 普通に「求める」だが古くは「願望する」; sehnen sich nach : 欲しくてたまらない、恋しい。ここでのヘブライ語はkacaph(恐れなどで青くなる、切望する)、kalah(終わる、消えてしまう)で、日本語訳は一般に「絶え入るばかりに慕う」。
  • freuen sich : 喜びを覚える。ヘブライ語ではranan(叫び声をあげる)という言葉が使われており、英訳ではKing Jamesでcrieth out、RSVでsing for joy、日本語訳だと「喜び歌う」「喜び呼ばう」など。ルター版のドイツ語には、「歌う」「叫ぶ」といった意味はないが、もう少しニュアンスを込めてもよいのかも。前から続けて読めば、「恋焦がれて気を失ったり叫んだりする」ということにもなる。
  • lebendigen Gott : 生ける神。旧約の預言者たちは、偶像崇拝(死んだ神)への対比として「生ける神」という表現を用いた(イザヤ書49:18には、主が「わたしは生きている」と述べる箇所がある)。lebendigen Gottは、Herr Zebaothとよく似た形の長いフレーズで歌われる。
  • Wohl : 幸福、健康。「Wohl denen」は英訳ではBlessed、日本語でも「~はさいわいである」となっていて第1曲冒頭とほぼ同じ意味だが、いちおう「Selig」とは違う訳語にしてみた(ここはヘブライ語のesherアシュレイの訳)。関根訳だと「あなたの家に住む人に幸(さち)あれ」。ただし、ルター訳の「Selig」は常にギリシャ語のマカリオスに対応しているというわけでもない(たとえば「救われる」という意味で用いられていることもある)。
  • loben : ほめたたえる。名詞形Lobは第6曲のPreisと近い言葉で、神を讃えるときに使われる。Lobgesangなら讃歌。元のヘブライ語はhalal(ハラル:輝く、ほめちぎる、讃える。)で、このあとに主を表すYahhを加えると「ハレル・ヤ」になる。つまり、loben dichとは「ハレルヤ」というわけだ。二重フガートでテンションを高め、熱く讃えるという感じを醸し出している。
  • 曲想標語の「Mäßig bewegt」は、適度に動きをもって
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-44変ホ長調( - 変ロ長調) 3/4Mäßig bewegtWie lieblich sind
bb. 45-84(変ロ短調 - 変ト長調 - 変ホ長調)Meine Seele
bb. 85-179(変ホ長調 - 変イ長調 - 変ホ長調)Wie lieblich sind

詩篇84章「なんと愛しいことでしょう、あなたの住まいは」による、心安らぐ舞曲です。曲は下降する木管の序奏を受け、合唱がその反対の動きを歌って始まります(いずれもSelig動機の変奏であることがすぐに分かるでしょう)。全体を通じて速度も拍子も一定ですが、音楽は“適度に動きをもって”刻々と表情を変えてゆきます。「あなたを常に讃えるひと」の部分で二重フガートが用いられたり、同じ詩の繰り返しに異なる旋律があてられたりと、短いながら多様な要素を持っています。

第5曲

Ihr habt nun Traurigkeit;あなた方は、今は悲しんでいます;
aber ich will euch wieder sehenけれども、私はあなた方と再会しましょう
und euer Herz soll sich freuen,そのとき、あなた方の心は喜び、
und eure Freude soll niemand von euch nehmen.その喜びは何ものにも奪われません。
ヨハネ福音書 16:22
Sehet mich an:私を見なさい、
Ich habe eine kleine Zeit私はわずかの間の
Mühe und Arbeit gehabtほねおり労苦で
und habe großen Trost funden.大いなる慰めを見出しました。
ベンシラの知恵 51:35
Ich will euch trösten,あなた方を慰めましょう、
wie einen seine Mutter tröstet.母がその子を慰めるように。
イザヤ書 66:13
  • ヨハネ福音書16章から採られた節は、イエスが弟子たちに向かって「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」と述べて、それを受けて弟子たちが不安のうちに論じ合っているときに語った言葉。ここでは、現在は悲しんでいても、(神に慰められて)きっと喜びを得られるというほどの意味で、第1曲の「悲しみを負うひと」につながる。
  • Traurigkeit : 悲しみ、悲しい出来事。「Leid und Traurigkeit」という表現があるように、第1曲のLeidと通じるものだが、Leidは苦悩するような悲しみ、Traurigkeitは悲哀(あるいはもっと一般的な悲しみ、仏語のtristeと同じ)、というところか。Traurigkeitの類語Trauerは人を失った悲しみ、哀悼という意味もある。ブラームスの場合は、LeidもTraurigkeitも湿っぽさや陰気さはなく、悲しみを静かに受け入れているという感じの音楽に聞こえる。まだ35歳だったというのに!
  • wieder sehen : ふたたび逢う。wiedersehenで再会するという単語になっており、別れの挨拶はAuf widersehen(またお会いしましょう)。この曲の最後にソプラノ独唱でwieder sehenが繰り返されるところは、さまざまな思いが交錯して、たとえようもなく心にしみるのである。
  • ベン・シラの智恵(シラ書)51章からの引用は、「知恵を求めよ」と勧める中の一節。祈り、耳を傾けることで知恵を得ることができる、お金をかけるのではない、知恵はすぐ身近にある、と説いたあとに続く。このレクイエムにおいては、知恵とは直接関係なく、第1~2曲の“働き耐える”人々との対比として捉えられる。ここだけを取り出すと唐突な感じだが、前段(再会して心が喜びに満たされる)を受けて「わずかの間のほねおり労苦で」慰めを見出す、と読めるだろう。大な苦労から解放されて、安らぎと慰めを得られる、という意味では、第7曲にもつながっていく。
  • 合唱の歌う「Ich will euch trösten」は、イザヤ書の中でも黙示録的とされる最後の部分で、神に救われる人々と、神の怒りを受ける人々の両方が描かれる章だが、ブラームスはその救われる人々の部分のみを取り出している。もしかすると、聖書をよく知る人にとっては、これは次の第6曲の伏線のように感じられるかもしれない。もっとも、ここでは聖書の文脈を離れて、素直に母の慈愛と捉えておけば十分。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-18ト長調 4/4LangsamIhr habt nun Traurigkeit
bb. 19-26(ニ長調)Ich will euch trösten (Choir)
bb. 27-48(変ロ長調 - ロ長調 - 嬰ヘ長調 - ト長調)Sehet mich an
bb. 49-82ト長調 (/変ホ長調/変イ長調)Ihr habt nun Traurigkeit

織物を思わせる動きの伴奏に導かれ、ソプラノ独唱が「あなた方は、今は悲しんでいます」とゆったり歌います。転調してベンシラの知恵51章による中間部となった後、「あなた方は」に戻ります。しかし今度は音程が変化して憂いを含み、「悲しんで」いる人に歩み寄るかのようです。

並行して、合唱はイザヤ書から「あなた方を慰めましょう」と歌っています。「母がその子を慰めるように」が独唱に重なり、天の声と母の声が二重写しにされます。第1曲に続いて取り上げられる《慰め》は、このレクイエムの中心主題のひとつです。

第6曲

Denn wir haben hie keine bleibende Statt,われらここに永遠の地をもたず、
sondern die zukünftige suchen wir.しかるに、未来のものを求むればなり。
ヘブライ書簡 13:14
Siehe, ich sage euch ein Geheimnis:見よ、あなた方に奥義を話しておく:
Wir werden nicht alle entschlafen,われらは全てが眠るのではない、
wir werden aber alle verwandelt werden;われらはしかし全て変えられる;
第一コリントス書簡 15:51
und dasselbige plötzlich, in einem Augenblick,突然、瞬く間に、
zu der Zeit der letzten Posaune.最後のラッパの時に。
Denn es wird die Posaune schallen,すなわち、ラッパが鳴り響き、
und die Toten werden auferstehen unverweslich死者はよみがえり朽ちぬ者となり
und wir werden verwandelt werden.われらは変えられるのだ。
第一コリントス書簡 15:52
Dann wird erfüllet werden das Wort, das geschrieben steht:そのとき、書かれてある言葉が実現する:
Der Tod ist verschlungen in den Sieg. 死は呑みこまれてしまう、勝利のなかに。
Tod, wo ist dein Stachel? 死よ、どこにあるのだ、おまえの棘は?
Hölle, wo ist dein Sieg? 地獄よ、どこにあるのだ、おまえの勝利は?
第一コリントス書簡 15:54/55
Herr, du bist würdig主よ、あなたこそふさわしい方
zu nehmen Preis und Ehre und Kraft,賛美と誉れと力を受け取るのに、
denn du hast alle Dinge erschaffen,なぜなら、あなたは万物をつくりだしたのであり、
und durch deinen Willen haben sie das Wesenまたあなたの意によってそれらは存在し
und sind geschaffen.つくられたのですから。
ヨハネ黙示録 4:11
  • keine bleibende Statt : 永く続く場所はない。第2曲のdes Herrn Wort bleibet in Ewigkeit(主の言葉は残る、永遠に)と対称形をなし、「人間の光栄はみな草の花のごとし」と同じことを述べている。ヘブライ書簡の最後の章である13章は、いろいろな道徳訓話で“神に喜ばれる”ための心構えを述べているのだが、ブラームスはそこからこの一句だけをとりだし、未来のもの、すなわち復活と再生によって得られる、神のもとでの喜びに向かう出発点にすえている。
  • Geheimnis : 奥義、秘密、神秘。Heimは英語のhomeと同じで、家とか故郷だが、そこからheimlichは内輪の、内緒のといった意味になり、geheimなら内密の、秘められた、ということになる。ギリシャ語聖書ではmusterion(ムステリオン)で、これは聖書では《神の王国の秘密》をさすときのみ用いられるそうだ。音楽も、神秘的なpの減七和音で始まって嬰ヘ短調という怪しい調(ハイドンの「告別」の調)に解決する。
    第一コリントス書簡15章は、手紙の最後の方でキリストの復活と死者の復活について述べる部分で、その末尾において復活と変身の奥義が語られる。
  • entschlafen : 眠り込む、永眠する。「Wir werden nicht alle entschlafen」は「そのときまでに死ぬ人もあるが、生きたままときを迎える人もある」、つまり(書簡の著者であるパウロを含めて)人々が生きているうちに“そのとき”を迎えるという考え。これを受けて次に、死者も生者もそのときに「変えられる」と述べる(“そのとき”とは、聖書では最後の審判だが、敢えてそう呼ばない理由は後述)。
  • verwandeln : (すっかり)変える、変化させる。カフカの『変身』はDie Verwandlungだ。ギリシャ語はallasso(変える)。
  • dasselbige plötzlich, in einem Augenblick : そのとき突然、瞬く間に。dasselbige のselbは「~と同じ」で、dasが中性名詞Augenblickを指すので、瞬きをするほどの間のそのときに突然に、ということになる。現代のルター版聖書ではdasselbe plötzlich。
  • auferstehen unverweslich : 朽ちることのないものとしてよみがえる。マーラーの『復活』はAuferstehung。ギリシャ語はegeiro(起き上がる、再び立ち上がる)、aphthartos(朽ちないもの)。
  • erfüllen : 満たす、かなえる、実現させる < Fülle : いっぱい、豊か(=full)。ギリシャ語聖書ではginomai(なる、生じる)。書かれてある言葉として次に引用されるのは、イザヤ書25:8といわれている:Denn er wird den Tod verschlingen ewiglich(彼=神は死を永遠に呑み込んでしまうであろう)。verschlingenは「がつがつ食う、飲み込む」。
  • Hölleは、ギリシャ語のhaides(ハデス:黄泉の国、死者の世界)の訳だから、直前の「死」の言い換えと考えることができるが、ここではドイツ語の直訳「地獄」とした。
  • これらは聖書において最後の審判を描いた部分からとられているが、ブラームスは注意深く「裁き」「怒り」の部分を避け、“神によって朽ちぬ者に変えられる”という、復活と再生に焦点を当てている。通常のレクイエムの「怒りの日」の位置づけに近い劇的な音楽だけれども、この選択によって決定的に異なる内容となっている点に注意。
  • würdig : 威厳ある、ふさわしい。ギリシャ語はaxios(アクシオス:ふさわしい)。
  • Preis und Ehre und Kraft : 賛美と誉れと力という3点セットのうち、ブラームスはほぼ常にEhreに最も高い音をあてている。また、後半ではPreis und Ehreが対で歌われ、締め(複全音で強く延ばす決め音など)にKraftを持ってきている。
    • Preis : 賛美。英語のprice/prizeに相当し、口語はちょっと世俗的な感じがするが、雅語としてはLobと同じ賛美の意味になる。ギリシャ語はdoxa(ドクサ)で、第2曲の「人の光栄はみな」で使われたのと同じ言葉。エルバーフェルダー聖書では第2曲と同じHerrlichkeitが使われている。英訳ではglory。
    • Ehre : 名誉、誉れ、尊敬 < ehren(敬う、賞揚する)。英語のhonourにほぼ対応する。ギリシャ語のtime(ティーメー)も尊敬を表す(が、価値、価格という意味もあり、むしろこちらがPreisみたいなのが不思議)。
    • Kraft : 力、能力。英語で言えばpowerにあたる。エルバーフェルダー聖書ではMachtがあてられているが、ギリシャ語のdunamis(デュナミス:力、威力、奇跡)にはKraftの方が合っているような気がする、たぶん(Kraftは何かを可能にする力、Machtは支配する権力としての力という意味がある)。
    細かな意味はともかく、この3つの言葉は歯切れがよいため、聞き取りやすく印象も強い。ブラームスはこれを生かして、フーガの決め所でこの3語を何度も繰り返し、強烈な効果を挙げている。
  • geschaffen < schaffen : 生み出す、創造する。ギリシャ語ではktizo(クティゾー:創造する、建てる)。「あなたがつくりだし、またあなたの意によってつくられた」という同語反復は、(聖書にしばしば見られる)強調、高揚感のレトリックと捉えておけばよいが、《単に作り出す力があるだけでなく、万物をつくって世に送る=恩恵を与えるありがたい意思も持つ》とか、いろんな注釈をつけることもできる。第3曲の「わが命は空にひとしい、あなたの前では」という嘆きの裏返しで、いかに神が素晴らしいかと讃えているわけだ。Willenと訳されたギリシャ語thelema(テレマ/セレーマ)は意思のほかに喜び、望みという意味もあるので、「あなたの喜びのためにそれらは存在し、つくられた」という訳もある。
    ところで、ルター版聖書では2回ともgeschaffenなのだが、ブラームスは1回目をalle Dinge erschaffenと歌わせている。geが連続するのを避けて、ほぼ同じ意味の言葉に置き換えたということだろう(ん?文法はこれでいいのか?)。ブラームスはレクイエムのテキストについて、「わたしは音楽家であり、これらを必要としたから」詩を選んだのだと、ラインターラーにあてて書いている。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-31ハ短調 4/4AndanteDenn wir haben hie
bb. 32-66嬰ヘ短調 4/4Wir werden nicht alle entschlafen
bb. 67-81( - ハ短調Vへ)zu der Zeit der letzten Posaune
bb. 82-207ハ短調 3/4VivaceDenn es wird die Posaune schallen
bb. 208-349ハ長調 4/2AllegroHerr, du bist würdig

音楽は一転して陰りをみせ、思いつめたような合唱が「われらここに永遠の地をもたず」を歌い始めます(譜例⑩)。主和音に解決しない不安定な状態のまま、転調したバス独唱の「見よ、あなた方に奥義を話しておく」から音楽は厳しさを増してゆき、復活と再生の時の劇的な描写に突入します。

激しくうねる弦、咆哮する管打、叩きつけるスフォルツァンド、ぶつかり軋む不協和音と転調。そして死に打ち勝ち、「どこにあるのだ、おまえの勝利は?」と歌うクライマックスは、レクイエム全曲を通して最大の聴き所のひとつです。

勝利の後は、ヨハネ黙示録4章「主よ、あなたこそふさわしい方」による、140小節にわたる大フーガです。Selig動機がこだまする主題(譜例⑫)は、ときに力強く、また優美に、あるいは華麗に展開されてゆき、圧倒的な賛歌が繰り広げられます。「賛美と誉れと力を」と繰り返して神を讃え、第3曲同様、輝かしいフォルテで終わります。

第7曲

Selig sind die Toten,祝福されたるは、死者、
die in dem Herrn sterben, von nun an.主のうちにあって死ぬひと、これよりのちに。
Ja, der Geist spricht,そうだ、と精霊は言います、
daß sie ruhen von ihrer Arbeit;かれらは労苦から解き放たれる;
denn ihre Werke folgen ihnen nach.かれらの成したことは後ろについてくるのだから。
ヨハネ黙示録 14:13
  • Toten : 死者 < tot(死んだ);sterben : 死ぬ。sterbenの結果としてtotという状態(つまりToten)になる。死んでゆくときに「in dem Herrn」である死者が祝福されるのだと。
  • von nun an = from now on : 「これよりのち」というのは、この黙示録14:13はヨハネが「わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。《祝福されたるは…これよりのちに。》』」と述べている部分だからで、天の声が「これよりのち」と言っている。諸説があるが、この天の声が聞こえたとき以降でもよいし、第6曲の復活・再生のとき(最後の審判)よりのち、と捉えてもよいだろう。あるいはこのレクイエムを聴いた(歌った)とき以降かな。
  • Ja, der Geist spricht : 天の声に続いて、精霊もヨハネに語る、という場面。「かれらは労苦から…ついてくるのだから。」が精霊の言葉。いったんハ長調におさまっていた音楽が、ここでV/Vの9根音抜きという何とも素敵な和音からホ長調を経てイ長調に解決する和声進行は、音楽の精霊というところ。
  • Arbeit : 労働、労苦; Werk : 仕事、作品。よく似た言葉だが、Arbeitはそこから解放されるべき労働、Werkeは成果として残る仕事と、はっきり使い分けられている(だから第5曲の「ほねおり労苦」もMühe und Arbeitで、Werkeではない)。Arbeitはギリシャ語kopos(コポス:苦労、勤労)の訳、Werkeはergon(エルゴン:働き)の訳。新共同訳ではそれぞれ「労苦」、「行い」。
  • ihre Werke folgen ihnen nach : かれらの成果は後ろから付き従ってくる。働いて成したものごとは報われるということ。ブラームスの主題としては、第1~2曲で農夫を通して描いた《働くこと》を受けており、この面でも先頭曲と最終曲が対称関係になる。「後ろについてくる」とは、生前に成した業績が天の世界への切符になるのではなく、死者が天に迎えられた後で、神によって成したことへの報いがあるということで、生前の業(が先に天に行って、それ)によって評価されるという(異教の)考えとは逆になる。
  • 曲想標語のFeierlichは、おごそかに。祝祭的なという意味もあるが、基本的には式典的な祝い事で、華やかな祭りならfestlichだろう。Feierは(公式的な)祝いの「式典」、Festは社会的、あるいは家庭的な「祝宴」、Festlichkeitは比較的盛大な「祝祭」。Feierはラテン語のferiae:礼拝日から。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
bb. 1-47ヘ長調( - ハ長調 - ホ長調) 4/4FeierlichSelig sind die Toten
bb. 48-101イ長調 4/4daß sie ruhen von ihrer Arbeit
bb. 102-166ヘ長調 4/4Selig sind die Toten

最終曲は、ふたたび「Selig」で始まります。しかし今度は、「祝福されたるは、死者」(ヨハネ黙示録14章)となっています。大きなドラマの末、悲しむ人間は神のもとで祝福を受けるに至るのです(ブラームスの200年前に、やはりドイツ語によるレクイエムを作曲したシュッツも、終曲にヨハネ黙示録の同じ章を用いていました)。

合唱とオーボエが、「祝福されたる」を第1曲末尾の「慰められる」と同じ音程の旋律で歌います(譜例⑬)。転調して「労苦から解き放たれる」で表明されるのは、ブラームスの重要な命題である、救いと報いです。冒頭を繰り返して小さなクライマックスを築いた後、第1曲の最初が回顧され、円環が閉じるように、「Selig」の響きの中で音楽は静かに消えてゆきます。

ブラームスの選んだ歌詞(試訳について)

ドイツ・レクイエムの歌詞を考えるとき、(1)聖書の章句の本来の意味;(2)ギリシャ語やヘブライ語、あるいは日本語訳の聖書とは違う、ルター訳聖書の言い回しにおけるドイツ語の意味;(3)ブラームスが聖書の句の抜粋を並べて作り出そうとした独自の意味;の3つを考慮に入れ、最終的には(3)を伝えられる訳詞とすることが必要でしょう。

ブラームスは聖書の中から、明確な意図をもって語句を選び、元の文脈とは離れたところでそれらを配列、再構成しています。自らはっきりと、「ヨハネ福音書3:16(神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。=新共同訳)のようなテキストを意図的に避けた」と述べているのです。

〔自筆の歌詞画像〕
ブラームス自筆のドイツ・レクイエムの歌詞:ウィーン市-州立図書館所蔵

ここでは、聖書の各版や注釈書を参照しつつ、ドイツ語の意味を再確認しながら試訳を行いました。音楽のフレージングや繰り返しによる強調を念頭に、語順もできるだけ歌われる順にしているため、やや不自然な倒置法になっているところもありますが、その方がドイツ・レクイエムの詩を音楽として捉えるためにはよいのではないかと考えています。また、語調もあえて統一せず、曲の雰囲気によって使い分けています。

参考文献