ノリントン・インタビュー
プラハの春1996プログラムから

プラハの春の「我が祖国」演奏の伝統に歴史的な瞬間が訪れた。スメタナの6つの連作交響詩を、今年初めて外国のチームが演奏する−著名なイギリスの指揮者ロジャー・ノリントンとロンドン・クラシカル・プレイヤーズ−彼らはしかもこの作品の歴史的考証に基づいた演奏を行なうのである。この点について、ロジャー・ノリントンは続くインタビューで語っている。

Q: スメタナの作曲によるこの作品と他の19世紀の音楽をどのように関連付けますか? ブラームス、ワーグナー、ブルックナーときた後で、なぜLCPはスメタナを取り上げることにしたのですか?

「我が祖国」は、インスピレーションの源泉をウィーンやドイツに持ちながらも自国の特徴を確立している「東方の」作品のパターンにごく自然に当てはまるように思われます。スメタナだけではなくて、例えば、ドボルザークやチャイコフスキーのことを考えているのですが。LCPと私は、音の探求の更なる冒険に、いま東の方に舵を取りつつあります。スメタナを演奏する機会というのはすばらしいもので(これはプラハからのもので、私たちの提案ではありませんが)、確実に私たちはドボルザーク、チャイコフスキーを目差していくことでしょう。

Q: 自分の国ことではない「我が祖国」のコンセプトをどうとらえますか? スメタナの音楽的ビジョンの根底にあるチェコの愛国的象徴主義についての見解はいかがですか?

もし音楽が作曲者の国の人々にしか演奏できないということになったら、哀しいことでしょう。そうなったら、チェコの指揮者や歌手はモーツァルト、ベートーベン、ビバルディ、ロッシーニなどを演奏できない? いえ、音楽は国際的なもので、我々は皆お互いのものを楽しむことができるのです。ちょうど食べ物やユーモアと同じように。私が「我が祖国」を演奏するときは、それをまさしく自分の国と捉えるようにします。

スメタナやその同時代人を駆り立てた愛国心は、周辺国から脅かされてきた我々の多くにとって容易に理解できます。それは「我が祖国」の中心をなすもので、音楽にも明確に示されており、従って演奏においても重視されなければなりません。

Q: 音楽作品がどのように響くべきかということを考えるときに、あなたは絶対音楽と標題音楽を区別しますか? これと関連して、“「我が祖国」の内容に関する短い筋書き”として知られる、個々の交響詩についての作曲家自身の言葉による解説、あるいはそのほかの、例えば書簡の中にあるような、正統とされるコメント(スメタナが初演の指揮者アドルフ・チェクに宛てて「サルカ」をどのように演奏するべきか指示したものなど)は、あなたにとってどの程度重要ですか?

おそらく、全ての優れた音楽はプログラムを持っているのであって、ときどき我々の方がそのプログラムを知らないだけなのです! 英国の作曲家ウィリアム・ウォルトンは、「何かとんでもないことが彼に生じる」のでない限り、何人も交響曲のような難しいものを書くことなどできないと言っています。音楽が実際にプログラムを持っているのなら、それを受け入れ、そのように演奏しなければなりません。ちょうどオペラにおいて筋書きを無視することができないのと同じ事です。スメタナの「我が祖国」に関するコメントは、この非常にリアリスティックで国民主義的な音楽を理解するのに第一級に重要なものです。そして、アドルフ・チェクに宛てた指示などのような、作品を照らすことができるようなものは何でも同様に重要です。そのほかの材料としては、古い詩、いろいろな場所の写真や版画、チェコ共和国を旅行してまわることなど、一般に音楽のこころを感じたどっていくようなことです。

Q: 歴史的に考察された演奏を行なうというのは、一般的には、また具体的には、どういうことなのでしょうか。例えば、シュッツやバッハの基準は、明らかにスメタナには当てはまりません。19世紀後半の演奏活動の核をなす特徴を語ってもらえませんか? 今日の解釈的なスタイルともっとも違うのはどういう点でしょう。もし「企業秘密」でなければ、「我が祖国」から具体例を示していただけませんか? これと関連して、私は例えばオーケストラのサイズに関心があります。あなたは一般的に当時のヨーロッパの慣習に基づくか、あるいはその時期のプラハの状況を勘案するのでしょうか。

歴史的情報に基づいた演奏は、音楽がどのように演奏されるべきかについて我々が学びうること全てに関わります。これにはスコアそのもの、使用されていた楽器、ホール、舞台上の座席配置、各楽器の奏法などが含まれます。指揮の方法。その時代の人々、そしてもちろん作曲家自身が音楽をどのように理解していたか。けれども、これらすべての要素がしっかり固まったら、最終的には、私たちは音楽を私たちのための、私たちの時代のためのものとして演奏しなければなりません。エキサイティングな音楽演奏がポイントです。我々は古い情報を咀嚼し、音楽を現在のものとして響かせるのです。そう、シュッツやバッハに当てはまるこの基準は、スメタナに対しても然りです。すなわち、私がここまで話した全ての問題について同じ問いかけをするということです。もちろん、答えは異なったものですが。

我々が19世紀後半の演奏習慣について調べたことは、オーケストラのバランス(多すぎない弦)、多くの場合「弓が弦から離れない(on the string)」ボウイング、純粋な音(ごくわずかのビブラート)そして幾ばくかのポルタメントといったものです。音符の長さとアーティキュレーションも大切な点ですが、これは言葉で説明するのは難しい−音楽はまさにこのためにあるのですから!

今日との最大の違いの一つは、現代では遅い音楽はできるだけ遅く、速い音楽は可能な限り速く演奏しようとするというところでしょう。これは「我が祖国」の場合には当てはまらないですね。この曲の今日の演奏習慣は大体において過去のものを踏襲しているように思われます。ほかの多くの場合、作曲家が演奏に「センチメンタル」なものを求めるなどほとんどないとわかって驚くことでしょう。彼らが望んだのは「真の感情(real emotion)」です。このことはブラームスばかりでなく、チャイコフスキーやマーラーにも当てはまります。純粋な情熱というのは大袈裟なセンチメンタリティとは別物なのです。

「我が祖国」の演奏で採用したオーケストラのサイズはウィーン・フィルのものです。ウィーンのオーケストラはほかのヨーロッパのものよりやや大きいのですが、周辺の目標でもありました。スメタナ自身はしばしばもっと小さなオーケストラを用いていましたが(例えばオペラの場合など)、ウィーンのサイズのオーケストラを経験したとき、手紙に記されているように、彼は身震いするほど興奮したのです。このサイズでも、もちろん、弦楽器は今日のものよりずっと少数です。ブルックナーやマーラーが、今回の我々の演奏のような、わずか12本の第1バイオリンで通常演奏していたと考えると驚きますね。

Q: 歴史的情報に基づいた演奏は、作曲家の自筆譜、オリジナルのテキストに忠実であることが必要ですか?  「我が祖国」の演奏の初期の頃から、指揮者は修正や削除という手段をとってきました。1983年にシュプラフォンから出版された「我が祖国」の慣用版についてはどうお考えですか。

歴史的演奏は確かに作曲家の自筆譜に忠実であることが必要です。そのため今日の状況においてはいくつかの難しい点もあります。1963年のクリティカル・エディションは、私が自筆譜と照らし合わせた限りでは非常に正確と見られます。残念ながら1983年のシュプラフォン版についてはそうとは言えません。これはシュプラフォンの常として、レイアウトも印刷も美しいのですが、優れた校訂版にかかると、これはスメタナの純粋主義者の使用に耐えるものではないことがはっきりします。「チェコ・フィルの伝統」による変更が溢れているのです。むろん、作品はこのように非常に美しく響くのですが、それはスメタナの本来の意図ではありえないのです。この作品を書いたとき、彼は経験豊富で成功した作曲家でした。近代の「伝統」はいつも歴史的演奏の実践の敵なんですよ、残念ながら。
(図版は「モルダウ」の自筆譜)

Q: 周知のように、来シーズンあなたはこの連作をアメリカのモダン・オーケストラで指揮しますね。これは、あなたが「我が祖国」の「二通り」の構想を持っているということなのでしょうか−ロンドン・クラシカル・プレイヤーズによる正統的なものと、もうひとつ別のものというように。さらに言えば、「正統的(authentic)」という言葉は「我が祖国」の場合、どうも不明確ですね。我が国では正統的な「我が祖国」とはチェコ人が指揮するチェコ・フィルによるもののことであり、したがってチェコの演奏の伝統にかっちりとのっとったもののことです。ということですが、あなたはこの伝統に対してどのように臨まれますか?

いえ、私は二通りの「我が祖国」の構想など持っていません。それはベートーベンの第9やモーツァルトのジュピターやバッハのロ短調ミサについて二通りの構想などないのと同じ事です。音楽と考え方はいつも同じです;音だけが違うのです。

私たちは「正統的な」演奏を行なっているわけではありませんし、そんなものが在り得るとも思いません。私は「正統的」なんて言葉を使ったりはしませんよ。私はチェコのオーケストラと指揮者の伝統を大いに尊敬していますし、彼らからチェコの演奏スタイルについて学びたいものだといつも考えています。けれども、どんな国でも最も偉大な作品は国際的なものになるのです。私はドイツ人によるフランス作品、イタリア人によるドイツ作品、アメリカ人によるイギリス作品の優れた演奏をずっと聴いてきました。スメタナの作品はチェコ共和国のものだけではなく世界のものです。ですから、私はこの演奏の興味深い点は、19世紀の楽器によるオーケストラがチェコのスタイルで演奏するのを聴くことだけでなく、イギリスのオーケストラが国際的に知られたチェコの作品に何をもたらすかを見届けるというところにもあると思うのです。

Q: 締めくくりに、あなたはなぜ遠い過去の演奏方法に立ち返ろうとするのか説明していただけますか? 歴史的情報に基づいた演奏とは、どういう意味を持っているのですか?

ずっと昔の音楽を演奏する場合、とり得る行動としては2つの相異なる方法があります。ひとつは近代的な楽器と奏法を用いて、音楽を今日風に仕上げ、歴史的背景は考慮しないというやり方です。もうひとつの可能性は、過去にさかのぼって、歴史的文脈において作品についてもっと多くのことを見出し、当時それはどんな風に書かれ、聴かれ、演奏されたであろうかを考え、彼らがそうした理由を見出すという行き方です。もちろん、最終的には、あらゆる演奏の実践はこれら両極の間のどこかに適当な場所に位置するわけですが。

私たちは、私の長年の経験から生まれた、過去は我々にその芸術の形態を語りかけるのだという暗黙の信念に基づいて、第2の方法をとっています。私が思うに、どちらの方法を取るにしても、音楽をこのように演奏するべきだと当然のことのように押し付けようとする、まやかしの「伝統」の類に頼ってはなりません。すべての指揮者は程度の差はあれ過去については勉強しています。歴史的情報に基づいた演奏というのは単にもっと先に、もっと詳細に進むというだけのことで、驚くべきことは、それによっていかに多くの発見があるか、例えば音楽大学で教わったことよりもずっと多くのことが分かるということだと思います。そして私たちが見出したことは、音楽のあらゆる面に影響を与えるのです:スコア、楽器、座席配置、スピード、抑揚、それにスコア自身の雰囲気にいたるまで。これは現在進行形の探求であり、私たちはまだ決してすべての答えを手にしているわけではありません。ずっとそれらを探し続けることがエキサイティングなのです。

(聞き手:イヴェッタ・コラチェコワ)

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