ヘンデル・ハイドン協会の指揮台にのぼるノリントン

ノリントンがボストンのヘンデル・ハイドン協会の芸術顧問に就任するに際しての記事を訳して紹介します。ビブラートなしで演奏するのは、歴史的な背景があるというだけではなく、それが美しいからやっているというところに注目してください。

The Boston Globe, January 12, 2007, by David Weininger

この週末のサー・ロジャー・ノリントンによるヘンデル・ハイドン協会(H&H)の演奏会は、この指揮者が協会の芸術顧問(artistic adviser)に就任しての仕事始めとなる。実際、これは彼のH&Hへの初登場なのだ。

初めてというのはやや驚きでもある。なぜなら、H&Hは世界で最も古いピリオド楽器団体のひとつだし、ノリントンはHIP(歴史的情報を生かした演奏)のリーダーであり、この実践を主流の世界に持ち込んだ学者=指揮者だからだ。彼は1978年にロンドン・クラシカル・プレイヤーズを設立し、1980年代にベートーベン交響曲全集を出して傑出した活動を行った。その演奏は、ベートーベンのメトロノーム指示を採用した最初のものの一つだが、当時物議をかもしたこのアイデアは、その後ほとんど標準的な演奏方法になった。彼のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音はまさに耳を開かせるもので、この基本レパートリーを生(き)のままに、強く、そして新たな未知なるものとして響かせたのだ。

より意外だったのは、ノリントンにとってH&Hのようなピリオド楽器団体との演奏がいまや希なものになっていることだ。「私は自分のピリオド・バンドを10年前に解散しました」と彼は電話のインタビューに答えてロンドンから語った。「ひとつには、たくさんの仕事を成したと思ったからです。私はそのあと、同じことを、今度はモダン・オーケストラと一緒にやってきました。古楽器のことからずいぶん遠ざかってしまったのは私にとっても驚きですが、それよりも可能性の方がエキサイティングですね……誰もがそのように演奏してよいのだという。」

これは少し聞いただけでは矛盾しているように思えるけれども、ピリオド楽器を使うということと、ノリントンが「時代を考慮した(period awareness)」と呼ぶ方法で演奏することを区別すると分かりやすいだろう。歴史的な楽器を使って演奏するということは、ピリオド・スタイル全体のごく一部の面にしか過ぎない。これは、ほかに楽器の数や配置、テンポ、フレージング、そして音色といったことをも含んでいるのだ。

「最初は楽器についてということでスタートしたものが、頭の中に正しい音を思い描かなければならないこと(something where you have to have the right sound in your head)に進んでいったのです」と彼は語る。「シュトゥットガルトの交響楽団で、私達は全レパートリーを時代を考慮したやり方で演奏しています。」

彼は1998年からシュトゥットガルト放送交響楽団の主席指揮者をつとめているが、しかしそこでの彼の仕事は、論争の種も撒いてきた。とりわけ弦楽器がビブラートなしで演奏するというノリントンのアイデアについては。文書に残された事実や録音から、20世紀に入ってもしばらくの間はオーケストラの演奏ではビブラートは広く使われてはいなかったと彼は主張し、だから後期ロマン派の大部分の作曲家の演奏から取り除かれるべきだというのだ。

ノリントンの考えの含意は、シュトゥットガルトとの3つのマーラーではっきりしたものとなった。この録音において、弦楽器はビブラートを用いず、彼のいう「ピュア・トーン」で演奏している。「ウィーン・フィルでは1940年までビブラートを用いていませんでした。」彼は、マーラーが指揮し、最もよく知っていたはずのオーケストラを引き合いに出して説明する。「それは、ある種の安っぽい音と考えられていました。カフェとか、ジプシー音楽とか。シリアスな音楽では使われなかったのです。」

オットー・クレンペラーやブルーノ・ワルターのようなマーラーとともに仕事をしたことがある指揮者たちが、たっぷりと弦にビブラートをかけさせた演奏を録音していると反論する批評家たちもいる。これに対してノリントンは、それはその後の人生によるものだと答えている。「彼らはビブラートに馴染まなければならなかったのです。それはちょうど、お気に入りの静かな田舎道が土曜日には車で一杯になってしまうことに慣れるしかないようなものです。問題は、それは作曲家が欲したものなのかということです。」

学術的な面からも彼には確信があるが、結果にこそ真の証明があると彼は言う。「ビブラートなしの演奏を聴いたとき、『おお何と、全く持って美しい。遙かに透明だ。楽器たちがまるで同じ言葉を語っているかのように響くではないか』と考えました。だから結局のところ、私はそれが美しいからやっているのです。」

違う意見を述べる人もいる。声高に。「薄っぺらく、抑制されすぎた弦の音と気前よく使われるポルタメントの組み合わせは、この音楽がどのように響くべきかのカリカチュアになっている」と、マーラーの録音の一つについて批評家David Hurwitzは書いている。「結果は、感情的に去勢された第5交響曲だ。」

この批評を投げかけてみたら、ノリントンは愉快そうに笑った。「もちろん最初は、憤慨されるんですよ。『マーラーをそんな風に演奏するなんてあり得ない!』けれども事実は、そんな風に演奏されたんです。」さらに彼は、こうした批評の慌てふためきぶりは、彼が最初にベートーベンを(彼が冗談交じりに言うところの)「間違ったスピード」で取り上げたときの反応に驚くほどよく似ていると指摘する。「今やほとんどの人がそのスピードでやっているんです。」

ノリントンは、H&HがGrant Llewellynの後任の音楽監督をさがしているときに顧問に就任するのを、喜んで引き受けたと語った。彼は以前に何度かボストンを訪れてH&Hの奏者もたくさん知っている。明らかに彼はモダンオーケストラとの仕事に熱意を持っているが、ピリオド楽器団体の前線に復帰することも喜んでいる。そこでは、普遍的な言葉が既に使われているのだ。ノリントンとH&Hは、ハイドンの交響曲2つ(49番と103番)とモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲(K.365)を演奏する。ロバート・レビンとヤ=フェイ・チャン(Ya-Fei Chuang)がソリストをつとめる。

「古楽器に戻ってくるのはいつも喜びです」と彼は言う。「私の友人たちがこれらの楽器を演奏するのを聴くのは、エキサイティングです。」