ブルックナー演奏ノート

目標


このCDについて

私たちがブルックナーを歴史的楽器で演奏することの狙いは、ベートーベンやブラームス、ワーグナーの場合と同じです。この録音において、私たちは、巨大な抽象物 ―― 私たちはこれしか与えられないことが多いのですが ―― ではなく、ブルックナーの人間の顔を捜し求めたのです。私たちは、祈りと同じくダンスを愛し、神秘家であると同時に音楽家で愛すべき教師でもある男を捜し求めています。こうした再評価は、その時代の楽器と編成と演奏スタイルを用いることでしばしば容易になるのです。

楽器

私たちは19世紀の終わりに進んできましたが、楽器の音が20世紀初期と比べてもどれほど異なるかには、依然として驚かざるを得ません。もちろん、弦楽器の構造は今日のものと全く同じです:違いは私たちが高弦にもガットを張っているということだけで、これによってしとやかな音が生まれます。しかし、木管と金管は、実際に聞いて分かるように、今日のものとは驚くほど異なっています。これらは、例えばベートーベンの時代と比べて、音域と信頼性の面では著しく「改良」されていますが、今日のものほどスーパーチャージされてはいません。ティンパニは、もちろん、革製のままです。

編成

弦楽器奏者の少なさは、木管と金管と比べると、衝撃的ですらあります。ブルックナーの時代の大半の「大編成」オーケストラでは、弦楽器は40以下でした:ウィーン・フィルだけが45名だったのです。もちろん、ブラームスやブルックナーのような作曲家は弦、木管、金管のこのような(私たちが耳にするのとは)全く異なったバランスに、全面的に親しんでいました:これこそ彼らが念頭において作曲した音 ―― 3つの「声部」が等しい強度を持っており、私たちが馴染んでいる増員された巨大な弦楽器のオーケストラではない ―― なのです。私たちはウィーンのサイズである12、12、8、8、6の弦楽器で演奏しています。

配置

ブルックナーが作曲時に想定した舞台の配置は、ウィーン・フィルがムジークフェラインで試行してきたものです。私たちは、この時代の音楽を演奏する際にいつもしているように、ここでもこの方式を採用しました。第1と第2のバイオリンが(そしてホルンとトランペットが)舞台をまたいで劇的な対話を行ない、チェロとバスは外側に並んで音に強力な基礎を与えます。

スタイル

私たちが採用した演奏法は、楽器の歴史的構造と同じくらい、音に大きな違いをもたらします。金管と木管のアーティキュレーション、弦のボウイング、そして19世紀のスタカートとポルタートの奏法、これらすべてが明晰さと私たちの目的である注意深いフレージングを生み出すもとになります。全ての楽器がビブラートをほとんど使わないか最小限の使用に抑えることで生まれる「純粋な音」、これは1920年代以前のオーケストラの特徴でもあるのですが、これも同様の効果をもたらします。

解釈

私がブルックナー学者に交響曲を作曲したブルックナーとはどんな人物かと尋ねると、彼は答えました:「人々が普通彼に関して耳にする神話の多くとはおよそ一致しない人だ。」私が一番しっくり来ないと感じる神話は、彼の全ての交響曲は宗教的な詠唱であるというものでしょう。これらの曲は、強調しておきますが、姿を変えたミサなどではありません。これらはコンサートホールでの演奏を目的にした、人間の管弦楽作品です。曲の「主観的要素」は確かに畏敬、神秘、精神というものを含んでいます。けれども、地球、ドラマ、ダンス、さらにはユーモアさえも同様に包含しているのです。

ワーグナーは『指揮について』で、彼の音楽はいつも「遅すぎる」テンポで演奏されると苦情を述べています [*1] 。この宿命は部分的にブルックナーにも降りかかっているのではないでしょうか? ワーグナーがマイスタージンガー前奏曲で指示したSehr mäßig bewegtは「4匹の元気なゴキブリがそれぞれの小節にいる、真に楽しげなアレグロ」という意味でした。ブルックナーの第1楽章は、全ての第1楽章がそうであるように、アレグロの要素、すなわち冒険と奮闘の要素をはっきりと備えていなければなりません。彼のGemäßigt, misteriosoは、間違いなくAllegro moderatoを意味するのであって、Adagio moderatoではないのです。第2楽章は祈りに満ちてゆっくり演奏されます。そのスピードは225小節目のワイルドな第1バイオリンの装飾音によってある程度まで決定づけられるのです。

奮闘と祈りの後には、爽快な場面が訪れます。ブルックナーの第3楽章は、もちろん、ダンスです ―― テンポはウィンナー・ワルツしかありません。私たちはそれを表面的に装おうとしたりはしませんし、トリオになったら突然ゆっくりにする必要もないと考えています。作曲者はトリオにおいても、同様に踊ることのできるテンポを、はっきりと求めているのです。フィナーレは働き、遊び、祈るという3つのテーマを統合しようという試みです。冒頭では再び奮闘が語られ、一方で第2主題は極めて明確に、祈りと踊りの両方を同時に提案するのです! この喜ばしいアイデアは大部分の解釈者を相当びっくりさせたようで、彼らは65小節目を半分のスピードで演奏し、おそらくそれでより「敬虔」で「崇高」な音楽を作ろうとしているのでしょう。私に言わせれば、これは全く的外れです。ブルックナーは(後に彼が説明しているように)本当の、踊ることができるポルカを、本当の、歌うことのできるコラールを作曲したのです。彼は両方(ポルカとコラール)を何百回も踊り、歌い、それがどのように進むのかを熟知していたのです。そしてetwas langsamerにおいて、その効果は人間的で喜びに満ちたものになっています:私がこれまで経験した「敬虔」なテンポでは、この人間性はご立派な祭壇の犠牲になってしまうのです。

歴史上の情報が、テンポやルバートに関するいかなるヒントも含めて、全て集められたとしても、私たちには人間による解釈という大きな仕事がやはり残されています。私は人間の仕事と歴史を融合させ、ちょうど交響曲のような大きな作品において、形式と音楽とドラマのそれぞれの要素がすべて創造的にバランスを保っているように、両者が互いに手を取り合って進むようにすることに関心があるのです。私たちがこの目標を追い求めるのは、理論や知性という理由からではなく、作品が今日の聴衆にとって可能な限りエキサイティングで新鮮に響くようにするためなのです。

ロジャー・ノリントン1996

[1] ノリントンのワーグナー管弦楽曲集の演奏ノートを参照

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